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「べっぴんさん」坂東営業部のモデルは佐々木営業部(レナウン)

べっぴんさん

「べっぴんさん」ヒロイン・坂東すみれの父が経営するのは「坂東営業部」という会社。変わった名前ですよね。もとになった会社はあるんでしょうか?それがあるんです。「佐々木営業部」という会社がモデルになってるんですね。

佐々木営業部はのちに「レナウン」に名前が変わります。アパレルメーカーとして有名なあの「レナウン」です。

ドラマではすでに大企業みたいな会社になってる「坂東営業部」ですが、これからも波乱がまちうけてるんですね。

ここでは「坂東営業部」のもとになった、佐々木営業部(レナウン)の歴史を紹介して「坂東営業部」がどうなるのか予想してみましょう。

 

目次

佐々木営業部の歴史

レナウン公式サイト によると。
おおまかな会社の歴史はこうなります。

明治35年(1902年)。佐々木八十八が大坂で「佐々木営業部」を創業。
大正12年(1923年)。商標「レナウン」を登録。
昭和19年(1944年)。会社消滅。
昭和22年(1947年)。尾上清が「佐々木営業部」を再開。
昭和42年(1967年)。社名を「株式会社レナウン」に変更。

 

佐々木八十八が一代で作った佐々木営業部

佐々木営業部は佐々木 八十八(ささき やそはち)が作った会社です。「べっぴんさん」では坂東すみれの父・坂東 五十八(演:生瀬 勝久)のモデルになった人です。

八十八は大阪の雑貨輸入商で働いていましたが、若いころから自分で会社を作るつもりでした。働いてお金を貯めて27歳で作った会社が「佐々木営業部」。「営業部」なんて会社の部署みたいな名前ですね。八十八は最初からグループ企業というか財閥を作るつもりだっんです。その中心になる組織ということでこんな名前になってるそうです。20代でそんな考えがあったなんて驚きです。

佐々木営業部は繊維商品を中心にあつかう会社でした。八十八は日露戦争の特需をうまくつかんで会社を急成長させました。関東大震災で苦しむ小売店を助け信頼を得ると、関東からの注文が増えてますます発展します。佐々木営業部は日本有数の会社に成長しました。

八十八はやがて貴族院議員になります。会社の経営は尾上説蔵に任せるようになりました。

 

「オライオン」のモデルは「レナウン」

大正11年。イギリスのエドワード皇太子が日本に来ました。その時乗っていたのが戦艦レナウンです。当時は飛行機がなかったので要人を運ぶのは軍艦の役目だったんですね。なにしろ軍艦はめったなことでは沈まないし海賊に襲われても守れますからね。

八十八はレナウンの水兵がかぶっていた帽子に金色の「RENOWN」のロゴが付いてるのを見てかっこいいと思いました。しかも英語の”renown”には”名声・栄光”の意味があります。八十八は”レナウン”を会社の商標にしました。

そのとき戦艦レナウンのお供をして日本に来たのが巡洋艦ダーバンという船。ダーバン「DURBAN」もレナウングループのブランドになりました。

「べっぴんさん」では坂東営業部は「オライオン」のブランドを使ってます。「オライオン」のモデルになるのが「レナウン」なんですね。

ちなみに、オライオン「ORION」は動物のライオンではありません。ギリシア神話の英雄(星座のほうが有名?)・オリオンのことなんです。

尾上説蔵との出会い

尾上説蔵は「べっぴんさん」では野上正蔵(演:名倉 潤)のモデルになった人です。尾上説蔵は19歳で見習い社員(丁稚)として佐々木営業部に入社しました。計算能力がずば抜けて優れていた上に頭がよくまじめでよく働きました。八十八は説蔵に目をつけ支配人(番頭)として育てます。

八十八が政治家になったあとは佐々木営業部の経営を任されます。
説蔵は海外にも進出。中国大陸にも工場をつくるなど精力的に働きました。しかし昭和15年病気で亡くなります。

しかも太平洋戦争で人手がいなくなったりして会社は経営が難しくなります。そのとき八十八の許可を得て佐々木営業部を江商(総合商社兼松)に売却交渉したのが尾上説蔵の息子・尾上清でした。

こうして一度・佐々木営業部はなくなりました。

 

佐々木営業部からレナウンへ

戦後の佐々木営業部を復活させ現在に続くレナウンを作ったのが尾上清です。「べっぴんさん」では野上潔(高良 健吾)のモデルになった人です。

戦争が終わって2年後。尾上清は佐々木八十八に呼びだされます。懐かしそうに過去の話をする八十八の姿を見て、清は佐々木営業部を再興してほしいのだと察しました。

尾上清は江商から佐々木営業部の株を買い戻して佐々木営業部を再開します。最初は八十八の長男・隆一(ドラマには登場しません)に佐々木営業部の社長を依頼するつもりでした。でも断られたので自分が社長になることにしました。

清は自社ブランドの洋服を大量生産して一般大衆に売る戦略を立てました。ブランドの価値とどうしたら、人々に売り込めるかということをよく知っていました。日本で初めてファッションショーを行い、新聞、雑誌、テレビで目立つCMを流して知名度を高め人々が欲しいと思う商品を次々と提供しました。

こうしてレナウンは日本を代表するアパレルメーカーへと成長しました。

尾上清は昭和50年(1975年)に引退。昭和63年(1988年)に肺炎のためなくなりますが、レナウングループは51の関連会社と売り上げ4000億円の大企業へと育っていました。

 

レナウンはその後、株式会社レナウンと株式会社ダーバンが合併して株式会社レナウンダーバンホールディングスとなり、のちに株式会社レナウン(新)と名前を変えました。ダーバンはブランドとして残りました。現在は中国の山東如意グループの傘下に入り子会社になっています。

 

戦後、尾上清が佐々木営業部を復活させたいきさつはこちら。
佐々木営業部復活までの道のり(べっぴんさん・坂東営業部のモデル)

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