連続テレビ小説「べっぴんさん」ヒロイン坂東すみれの夫・坂東(田中)紀夫のモデルとなったのが、坂野通夫です。
ところが、ドラマの坂東紀夫(田中紀夫)と坂野通夫は性格も言動も全然似ていません。別人じゃないの?と思えるくらい違います。でも、経歴としては坂野通夫がモデルになってるのは間違いありません。
坂野通夫は当時としては珍しい恋愛結婚をして。のちに妻・惇子の起こしたファミリアの社長となり会社の発展に尽くします。
女性の社会進出に消極的な男性が多かった時代でしたが、通夫は惇子達に的確な助言を与え、主婦の作った店が本格的な会社として発展するために尽くしました。
坂野通夫とはどんな人だったのか紹介します。
坂野通夫とはどんな人?
名前:坂野通夫(ばんの みちお)
生年:大正5年(1916年)9月30日
没年:平成4年(1992年)6月2日
生誕地:兵庫県芦屋市
父:坂野兼通
母:坂野えい
坂野家は尾張藩の下級藩士でした。父・兼通は尾張藩士ですが明治以降は銀行に就職し銀行界でも名を知られる存在になります。
通夫は兼通の七男として生まれました。父・兼通は厳格な性格でしたが54歳のときに生まれた末息子・兼通には甘かったといわれます。
通夫は子供のころはいたずらっ子でガキ大将でした。
中学2年のとき父・兼通が死亡。三菱銀行取締役を務めた長兄・坂野信夫夫婦に育てられました。
通夫は甲南高校に進学。
18歳のときに佐々木惇子に出会いました。
甲南高校を卒業後京都帝国大学へ進学、一時惇子とは離れ離れになります。でもその間も交際は続いていました。
大学在籍中は勉強にはあまり力を入れず遊んでいることが多かったといいます。これは当時、大学を卒業すると徴兵されるため在学期間中に楽しんでおこうという風潮が強かったためです。
昭和14年(1939年)。通夫は惇子と婚約。二人は当時としては珍しい恋愛結婚でした。敦子の父八十八は通夫の父・兼通には金融界の大物として一目置いていたので、八十八も歓迎しました。
通夫は女性には人気があったといいます。佐々木家を訪れると女中達が通夫にお茶を出す権利を奪い合ったといいます。
昭和15年(1940年)。大学卒業後。大阪商船(商船三井)に入社。通夫は惇子と結婚しました。当時は大学卒業後に結婚することは珍しくありませんでした。結婚後は二人で犬の散歩に出るなど、当時としては珍しいくらいのおしどり夫婦ぶりでした。
昭和17年(1942年)。10月13日。長女・光子が生まれました。
インドネシアに向かう通夫
昭和18年(1943年)。通夫はインドネシアのジャカルタにある海軍武官府に派遣されることになりました。戦時下では多くの企業が政府の管理下に置かれました。特に船舶とその乗員も国が管理していました。通夫の勤務する大阪商船も例外ではありません。海軍の命令で物資の輸送をしていたのです。
でも、海軍の委託を受けたことは幸いだったかもしれません。
通夫がジャカルタに旅立った後、陸軍から赤紙が来ます。野戦重砲兵に配属の予定だったといいます。つまり戦闘の最前線です。のちに通夫は「もし陸軍の赤紙を受け取っていたら命はなかっただろう」と回想しています。
通夫が派遣された当時のジャカルタはまだ厳しくななかったといいます。メイド付きの家に住み、生活に必要な品物も手に入りました。むしろ国内で物が不足した生活をしている惇子を申し訳なく思ったということです。
しかし次第に戦況は悪化します。日本の敗戦で立場が全く変わってしまいました。連合国の支配下に置かれてしまいました。
通夫は英語や現地の言葉が多少話すことができました。イギリス軍の命令で通訳になり「すみれ丸」に乗り込みました。すみれ丸は大阪商船の船でしたが、イギリス軍に捕獲され戦後はオランダ人の引き揚げに使われました。
通夫は帰国前に惇子へ向けて葉書を出しました。「すみれの花が咲くころに帰れそうだ」というものです。
昭和21年(1946年)4月。通夫は「すみれ丸」に乗って帰国。芦屋にある兄・信夫の家で妻・惇子と再会しました。
すみれの花が咲くころ。すみれ丸で帰る。ドラマ「べっぴんさん」でヒロインの名前がすみれになったのはこんなところに理由があるのかもしれませんね。
帰国後、通夫は大阪商船に復帰しましたが、会社は戦争で多くの船を失っており満足な活動ができませんでした。佐々木八十八と尾上清の勧めもあり東京編織(レナウン工業)に入社しました。尾上清の秘書となり一流の経営学を学びました。尾上清は通夫を佐々木営業部(レナウン)を任せられる人材にしようと育てていたのです。
戦後の暮らしは厳しく大幅なインフレと預金封鎖により生活用品が足りませんでした。通夫は生活用品をそろえることより栄養を第一に考えていたので、収入は優先的に食べ物に使われました。また通夫は「我々は乞食ではない」と、惇子にも親兄弟に援助を求めることを禁止していました。そんな状況なので、通夫たちの厳しい生活に驚いた姉や兄が食器や家具を持ち込むことがあったといいます。
惇子の開業に協力
そんなとき、妻。惇子が手芸店を開きたいと相談してきました。当時の男性は妻が社会で働くことには反対的な人が多い時代です。
でも通夫は違っていました。海外での経験、敗戦国のみじめな待遇から。与えられるのを待つ受け身な生き方ではだめだと考えたとも言います。
通夫は惇子が商売をはじめることを賛成するだけなく、「単なる手芸店にするのではなく、せっかく覚えた新しい育児経験をもとに、赤ちゃんや子供のための品質が良くてかわいいものを作ってうったらどうか」とアドバイスしました。それだけでなく店を開くための空き店舗まで探しました。でも惇子はすでにモトヤ靴店で開店することにしてたので、通夫の探した店は使われませんでした。
でも通夫のアドバイスを受けて開店した惇子たちの店は大繁盛。のちのファミリアのコンセプトにも大きな影響を与えます。
ところが敦子たちが始めた商売はほとんど利益が出ませんでした。商品はよく売れたのですが、お嬢様育ちの惇子は原材料費以上にお金をとることに抵抗がありました。それでも彼女たちは採算度外視で「物が売れれば楽しい」という感覚だったのです。これには通夫やモトヤ靴店のオーナー・元田連もあきれて店の経営についてアドバイスすることになりました。
通夫は会社の帰りに惇子の店に立ち寄って、伝票の切り方や帳簿の付け方を教えたり辰だったりしました。
空き店舗の相談を受ける
その後、元田靴店の南側に所有していた土地に入っていた店が撤退したため空き店舗ができてしまいました。元田は佐々木営業部で働いていた通夫に空き店舗のことを相談します。
佐々木営業部がその空き店舗を借りてレナウンサービスステーションとして利用することになりました。
ところが開店間もなく閉店に追い込まれます。繊維卸をしている佐々木営業部が小売り業まで始めたことに各地の小売店が反発したためです。
ファミリア設立と発展に協力
そこで通夫は妻・惇子にレナウンサービスステーションの店舗に移って会社を作り、本格的な会社にすることを提案しました。清も惇子たちが店舗を使うことには賛成してくれました。
建物獲得の資金は尾上清の協力で店舗は惇子たちのものとなりました。惇子たちはその店舗を使ってファミリアを設立しました。
でも新しく移った建物は惇子たちが使うには大きすぎました。そこで通夫はつきあいのあった川村商店に依頼し、店舗の1/3を使ってもらうことにしました。
後にファミリアは阪急百貨店に出店しますが、その橋渡し役になったのも通夫です。
ファミリア設立後、しばらくして通夫は惇子たちに頼まれて佐々木営業部を辞めてファミリアの代表取締役社長になりました。
通夫に佐々木営業部の中心になってほしい期待していた尾上清は退職を引き止めようとしました。でも通夫の意思はかわりませんでした。結局、佐々木営業部には籍を残したままファミリアに移りました。
ファミリアに映った通夫は取締役を務めて社内のことを理解したあと、社長になりました。それまで素人経営だったファミリアを本格的な会社として改革し会社の発展に尽くしました。
通夫は子供のころからガキ大将で海軍の経験もあるので仕事には厳しい人だったといいます。その点では亭主関白な昔の男性の雰囲気があるのかもしれません。
ところが、考え方は当時の男性やもしかすると今の男性よりも進んでいたかもしれません。厳しいだけでなく、通夫は女性の意見を聞いてまとめるのが上手だったといいます。厳しくしかった後でも、フォローをして女性社員の機嫌をとるのが上手かったといいます。
昭和60年(1985年)、ファミリア設立35周年の年。社長の座を娘婿・岡崎晴彦に譲りました。
平成4年5月23日(1992年)。息を引き取ります。享年77。
通夫は女性に人気があるだけでなく、経営には厳しい人だったといいます。惇子たち女性陣の大胆なアイデアや言動に冷や冷やしつつも、うまく導いて具体的に事業として成功させました。アイデアや志をビジネスにできる通夫の存在がなければファミリアの発展もなかったでしょう。
「べっぴんさん」坂東紀夫との違いは?かなり違います
坂東紀夫はモデルになった坂野通夫とはかなり違う描かれ方をします。
幼少期~結婚まで
坂野通夫と佐々木惇子は学生時代に知り合って恋愛結婚しました。でも田中紀夫と坂東すみれは幼馴染なんだけど親の決めた結婚となります。
紀夫が坂東家に婿養子に入るのも逆ですね。
少年時代の通夫はガキ大将でしたが、ドラマの紀夫はおとなしい子供です。
青年時代の通夫は女中がお茶を出すのを争うほど好青年だったといいますが。ドラマの紀夫は人づきあいが苦手な愛想のよくない人物のように描かれます。
ドラマでは不在のまま進んでしまう妻の開業
坂野通夫は戦争から戻った後、惇子のベビーショップ開業に賛成し、アイデアを出したり、商売について教えていきます。惇子たちの独立にたいしては会社を設立を提案したり店舗の獲得にも尽力します。
ところがドラマの坂東紀夫は戦死こそしませんが、戦争から戻るまでに年月がかかってしまいます。紀夫がいない間にベビーショップだけでなくキアリスの開店直前まで話が進んでしまいます。モデルになった通夫にくらべると1年以上帰国が後回しにされてる感じです。というかキアリスの開店がファミリアよりも早すぎるんですけどね。
通夫は戦時中の経験から自立することの重要性を感じましたが、紀夫は戦争で人間不信になってしまいました。妻が働くことを快く思っていない古い人間として描かれるのも通夫とは違います。
紀夫はその後も口下手であまりぱっとしない描かれ方をすることが多くファミリアの経営を支えた通夫のイメージとはかなりかけ離れてます。
坂野惇子の兄・佐々木隆一郎がモチーフの一部?
レナウンの社長となる尾上清は佐々木営業部を復活させるときに、佐々木八十八の長男・隆一を社長にしようとします。でも当時隆一郎は経営に対して意欲を失っていたので断りました。のちに佐々木不動産を始めます。
ドラマでは戦争から戻ってきた坂東紀夫に対し野上潔が坂東営業部を復活させて一緒にやろうと誘います。それに対し坂東紀夫は他の方法で家族を養っていくと断ります。このあたりのいきさつは尾上清と佐々木隆一郎の逸話がもとになってるようにも思えます。「べっぴんさん」ではすみれに兄はいないので、紀夫がその立場を引き受けてる感じですね。
尾上清は復員した坂野通夫を佐々木営業部に入社させ後継者として育てていました。いずれ会社の中心的な人物になるように考えていたのは確かなので、ドラマの野上潔の言葉はそれをモデルにしてるともいえます。
活躍の場が大幅減
朝ドラでは女性の活躍を描かないといけないので、そのぶん夫である紀夫の活躍がなくなってるのが気の毒と言えば気の毒です。
現実の通夫はもっと女性に理解があって仕事のできる男だったみたいです。前半ではまだ頼りない紀夫ですが後半ではキアリスとすみれにとっても大きな存在となりそうです。後半の紀夫の成長に期待ですね。
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