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「べっぴんさん」野上潔(高良健吾)のモデル尾上清はレナウン初代社長

べっぴんさん

連続テレビ小説「べっぴんさん」すみれの頼りになる幼馴染 野上潔のモデルとなったのが、尾上清。戦後佐々木営業部(後のレナウン)を再建してレナウン発展させた人です。ふさふさの白髪から「ホワイトライオン」と呼ばれる経済界でも有名人なんですね。

ドラマでは経済界の大物がヒロインの幼馴染として登場。物語の最後までかかわってきます。

野上潔のモデルとなった尾上清とはどんな人だったのでしょうか紹介します。

 

目次

 尾上清

 

名前:尾上 清(おのえ きよし)
生年:明治44年(1911年)5月23日
没年:昭和62年(1988年)2月9日
生誕地:大阪府大阪市
父:尾上説蔵
佐々木営業部支配人

 

尾上清は佐々木営業部の支配人(番頭)をしていた尾上説蔵の長男でした。尾上家は佐々木家とも親交があり、清は佐々木惇子にとっても兄のような存在でした。

昭和8年(1933年)。清は慶應義塾高等部を出たあと東京の佐々木営業部に入社しました。丁稚として入社しました。
昭和11年(1936年)。常務となります。
昭和13年(1938年)。徴兵されて、中国に派遣されます。
昭和15年(1940年)。復員したのち、伊勢丹社長・小菅丹治の娘・小菅喜子と結婚します。
昭和15年(1940年)。父・説蔵が死去。
昭和16年(1941年)。再び徴兵されて熊本に派遣されますがその年に戻ってきます。佐々木営業部に復帰しました。
昭和19年(1944年)。佐々木営業部は徴兵で人手不足になり営業が難しくなりました。国の進める企業整理で江商(総合商社兼松)に吸収されてしまいます。このとき江商と交渉したのが尾上清でした。佐々木八十八の承認を得て破格の条件で江商に売却することに成功したといいます。その直後、三度召集されて沖縄の部隊に派遣されます。

昭和20年(1945年)。終戦を宮古島で迎えたます。清は佐々木営業部を売却した江商には戻らないつもりでしたが、江商の社長・駒村資正から求められ江商の衣料部長になります。

 

物資横流しの容疑で逮捕される

 

尾上清は個人的に作った(江商衣料部内にあったともいわれます)有信実業という小売業者を使って凍結物資を売っていました。隠匿物質とは戦時中に軍が集めた物資なのですが、戦後行方が分からなくなっていました。隠匿物質が闇市にながれていたのです。またGHQが押収して凍結物資になったものもあります。有信実業では凍結物資をGHQから受け取り正規ルートで売っていました。

昭和21年(1946年)。尾上清は大阪府警から出頭命令を受けます。「闇ルートで物を売りさばいで私腹を肥やした。5億円相当の物資を横流しした」というのです。

当時は闇ルートで売買することが当たり前のように行われてた時代でした。そうしないと生きていけない時代だったのです。その一方で闇市で得たお金で私腹を肥やす闇成金がいました。警察は闇成金の取締を行っていました。

江商に迷惑をかけたくなかったので清は素直に応じます。ところが軍隊時代の清の部下で戦後は警察をしていた小倉巡査が「尾上曹長はそんなことをする人ではない」とうったえます。それを聞いた刑事部長らが調べてみると、多くの人たちから尾上さんのおかげで助かったという証言が集まりました。

そこで「闇市で私腹を肥やしていたのではない」ということで釈放されました。当時は新聞でも大きく報じられ世間では清のことを「鼠小僧」と呼んだそうです。

このときの有信実業にいた人たちが佐々木営業部の小売り部門になります。

 

佐々木営業部の復活

昭和22年(1947年)。佐々木八十八に呼びだされます。父・説蔵の7回忌の話や佐々木営業部を手放した無念を語る八十八の姿に衝撃を受けます。清は佐々木営業部を復活させたいのだと察しました。

清は江商を退職、資金を集めると佐々木営業部の株を買い戻し、佐々木営業部を再開します。

このとき、佐々木八十八の長男・隆一を社長にしようとしましたが、断られたため自分が社長になりました。

さらに、大坂心斎橋のビルに販売部門「有信実業」を設立レナウン・サービス・ステーションと田中千代子デザインルームを設立しました。田中千代子は戦前の佐々木営業部でデザインを担当していました。

尾上清はお世話になった佐々木家の関係者を再開した佐々木営業部の社長にしたいと考えていました。佐々木八十八の三女・惇子と結婚した坂野通夫は復員して大阪商船に努めていましたが、通夫を後継者にしようと考えます。佐々木八十八とともに通夫を誘って佐々木営業部に入社させました。その後は秘書として手元に置き会社の経営を学ばせます。

ある日、通夫が神戸三宮に空き店舗があると報告を受けました。ビルが手狭になってきたと考えていた清はその空き店舗を壊して新しい建物を建設。レナウン・サービス・ステーションを開設、有信実業と田中智恵子デザインルームを移しました。ところが、卸をやってる佐々木営業部が直接販売をするということで各地の小売業者が反発。開店直後に閉店に追い込まれました。

ファミリアの開店に協力する

レナウン・サービス・ステーションは通夫の妻が行ってる店が使うことになりました。清は個人としてビルの費用を出すことにしました。ファミリアの誕生です。尾上清個人が費用を負担したのでレナウンはファミリアとは関係ありません。

ファミリアができてしばらくすると、坂野通夫が会社を辞めると言ってきました。清としては佐々木営業部の中心となってほしいと思っていただけに引き止めましたが、通夫の意思は変わりませんでした。しかたなく佐々木営業部から出向という形でファミリアに送り出しました。

レナウンの発展

その後も尾上清は佐々木営業部の発展に尽くします。

先見性の高い清はマスメディアの影響力に注目、新聞、雑誌に大きく広告を出しました。

昭和26年(1951年)。民間放送の開始とともに宣伝を行いました。
昭和27年(1952年)。製造部門の「東京編織株式会社」を「レナウン工業株式会社」に社名変更。

昭和30年(1955年)。「株式会社佐々木営業部」を「レナウン商事株式会社」に社名変更。

昭和30年代後半になるとテレビが普及し始めます。

昭和36年(1961年)。テレビ番組のスポンサーとなり、小林亜星の作曲した「ワンサカ娘」をテレビCMに起用。注目を集めました。

昭和42年(1967年)。レナウン商事とレナウン工業が合併。株式会社レナウンとなりました。

昭和47年(1972年)。レナウンニシキをダーバンに社名変更。

昭和50年(1975年)。レナウンの経営から退き理事長となります。

昭和63年(1988年)。肺炎のため死亡。享年76。

敗戦後、佐々木営業部の株を買い戻すところから始めた会社は亡くなった年にはグループ51社。売り上げ4000億円のレナウングループに成長しました。尾上清は戦後の復興を支えた名物経営者でした。

 

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