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まっさん:亀山エリーのモデル、竹鶴リタ。まっさんとの出会いから日本に来るまで

朝ドラ

連続テレビ小説「まっさん」のヒロイン・亀山エリーのモデルとなったのが、竹鶴リタ。ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の妻です。

イギリスのスコットランドで生まれ育ったジェシー・ロバータ・カウン。愛称は”リタ”といいます。リタと呼ばれることが多いです。

スコットランドに留学に来た竹鶴政孝と出会い結婚します。そして日本にやってきてなれない生活が始まりました。

竹鶴リタとはどんな人だったのか紹介します。

目次

亀山エリーのモデル・竹鶴リタとは

生年:明治29年12月14日(1896年)
没年:昭和36年1月17日(1961年)
生誕地:スコットランド
名前:ジェシー・ロバータ(リタ)・カウン(Jessie Roberta “Rita” Cowan
竹鶴リタ(たけつる リタ)

夫:竹鶴政孝

スコットランドの イースト・ダンバートンシャーで医師の娘として産まれました。4人姉弟の長女。

次女はイザベラ・リリアン(エラ)、三女はルーシー、一番下の弟はラムゼイです。

自動車の免許もとり父の往診の手伝いもしました。

18歳でグラスゴー大学に入学、音楽英仏を専攻しました。

妹のエラも医学部に通いました。

エラと竹鶴政孝は合えば挨拶をする程度の仲だったといいます。政孝が柔道の達人という噂を聞いたエラは自宅で行うお茶会に政孝を招待しました。弟に柔道を教えてもらおうと思ったのです。

カウン家に招かれた政孝はカウン家の人々から質問攻めにあって戸惑います。そんな政孝を静かに見ていたのがリタでした。リタは政孝と出会う2年前、第一次世界大戦で婚約者を失っていました。

政孝はリタに一目惚れしました。政孝とリタは音楽が共通の趣味ということでしだいに親しくなります。政孝はカウン家にやってくるようになります。ラムゼイに柔道を教えるためでしたが、本心ではリタに会いたいからだったようです。

12月。政孝はカウン家のクリスマスパーティーに呼ばれました。イギリスではクリスマスにはクリスマスプディングを作ります。その記事の中にはコインや指輪を入れるのが風習になっていました。そこで切り分けたプディングの中に、男にコイン、女性に指輪が貼っていると良い結婚ができるという言い伝えがありました。

政孝のプディングにはコイン、リタのプディングには指輪が入っていました。妹や弟はこれを見て二人を冷やかしました。

リタと政孝はいつしか結婚を考えるようになります。

その間も、政孝はウイスキー工場で研修を熱心に続けました。イギリス以外にも修行に向かうためなかなかカウン家には来られません。

そんななか、リタとルーシーはハイランド旅行の合間に政孝に会いに行きました。旅行の終わりに近づいた頃、政孝はリタにプロポーズしました。「一緒になってくれたらスコットランドに残ってもいい」とまで言いました。しかしリタは「貴方の夢は日本に戻ってウイスキーを作ること」と言いました。リタは日本に行く決心をしたのです。

ところが当時は国際結婚は珍しく反対する人も多くいました。

母のロビーナ、妹のエラ、弟のラムゼイまでもが反対しました。手紙を受け取った政孝の家族や、政孝の務める摂津酒造の阿部社長も驚き、反対しました。

リタと政孝は妹のルーシー、友人のジェシー・アンダーソンの立ち会いのもとグラスゴーの登記所で宣誓しました。

政孝は工場で研修のためキャンベルタウンに向かうことになりました。リタもキャンベルタウンに向かいました。

摂津酒造の阿部社長がやってきました。阿部がリタを直接見て、ふさわしくないと思ったら二人の結婚を諦めさせるつもりでした。政孝の両親も社長に判断を託しました。しかし阿部が来るまでの間に二人は既に結婚していました。

リタは阿部社長と会いました。優しくも様々な質問をしてきます。阿部は政孝に「優しい人だし美人だね」と言ったといいます。リタと政孝は結婚を認められたのです。

リタの家族も妹のルーシーの説得でしぶしぶ認めました。しかし心から賛成していたわけではなかったようです。両家の同意が得られた二人はグラスゴーで結婚式をあげました。

大正9年(1920年)。リタと政孝はスコットランドを後にしました。結局母ロビーナは見送りに来ませんでした。いつ戻れるかわからりません。リタにとっては切ない別れとなりました。

 

リタが政孝を「まっさん」と呼ぶわけ

リタは最初、政孝のことを「ミスターマサタカ」と呼んでいました。でも政孝は堅苦しい言い方はやめてほしいといわれました。リタが日本ではなんと呼ばれていたのかと聞いたところ「まっさん」と呼ばれていたというので、リタも「まっさん」と呼ぶことにしたといわれます。

「マサタカ」と発音するのがスコットランド人のリタには難しかったので「まっさん」になってしまったともいわれます。

日常的に「まっさん」と呼ぶようになったのは結婚して日本で暮らすようになってからのようです。

日本で暮らし始めたリタ

日本に来たリタは、なれない日本の生活に苦労しました。阿部社長の好意で当時としては珍しい様式のベッドやトイレを用意してくれたようです。二人が来るまでに阿部社長から注文が入り外国人向けに改装までしたようです。

二人が住んだのは帝塚山(大阪市)にある芝川又四郎という大阪の有力な地主が大家を務める家でした。のちのち芝川はリタと政孝の大きな支えになります。当時の帝塚山は外国人が多く住んでいる場所だったようです。

リタは教会に行ったり、阿倍野や梅田に出かけまいた。教会には日本で暮らすイギリス人もいます。食生活や習慣の違いに戸惑いながらも、日本の暮らしに馴染もうとしました。

ところが、夫の政孝が会社を辞めてしまいます。本物のウイスキーを作ろうとしない会社も嫌気がしたともいわれます。

収入が途絶えた二人を助けたのは、リタが教会で知り合った外国人とその友人たちでした。

帝塚山には桃山中学校(現在の桃山学院中学校)の校長・ジョージ・w・ローリングス牧師が住んでいました。桃山中学校はイギリス人宣教師のチャールズ・F・ワレンが設立した中学校です。

リタはローリングス夫妻の好意で、良家の子どもたちに英語やピアノを教え始めました。樟蔭高等女学校(現在の樟蔭学園)の英語教師としても働きました。

政孝はローリングス校長のはからいで桃山中学校で化学の教師として働くことが出来ました。

このころリタが英語を教えていたのは大家の芝川又四郎の妻と子、政治家の野田卯一(野田聖子議員の祖父)の妻などでした。

リタはしだいに日本人らしく。というより立派な大阪弁をしゃべるようになっていました。

 

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