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まんぷく:立花福子のモデル安藤仁子とはどんな人?

朝ドラ

NHK朝の連続テレビ小説2018年後半は「まんぷく」。
ヒロイン立花福子の夫・立花萬平のモデルは日清食品の創業者安藤百福(あんどう ももふく)。チキンラーメンを開発した人です。

安藤百福の奥さんは安藤仁子(あんどう まさこ)。

生前はほとんど取材を受けていないことから、どのような人だったのかよく分かっていません。少ない資料から安藤仁子さんについて紹介します。

目次

立花福子のモデル安藤仁子

名 前:安藤仁子(あんどう まさこ)
生 年:大正6年(1917年)
没 年:平成22年(2010年)
出身:福島県
夫:安藤百福
子供 :
安藤宏寿(元日清食品代表取締役社長)
安藤宏基(現日清食品HD株式会社代表取締役)
堀之内明美

安藤仁子は大正6年(1917年)福島県で産まれました。

財界人が集まる大阪クラブの受付をしていました。

安藤百福(出会った当時は呉百福)と出会ったのもこのころです。

出会ったのは太平戦争中。陸軍中将・井上安正の紹介で二人は知り合いました。

7歳年下で義理堅く優しい仁子に百福が一目惚れしました。

昭和20年(1945年)。仁子と百福は結婚。京都の平安神宮で挙式を行いました。

その後は兵庫県に疎開していました。

8月15日。玉音放送を聞き、終戦を知った二人は翌日汽車に乗り大阪に出ました。

百福が経営していた会社の事務所や工場は空襲で灰になっていました。

「これからどうなるのでしょうね」と不安になる仁子に百福も途方にくれたようです。

昭和21年(1946年)。百福と仁子は疎開先を整理して大阪府泉大津市に引っ越ししました。

その後、百福は事業を起こしますが失敗と成功を繰り返します。

カエルを食べさせられる

百福は面白いテーマが見つかると没頭しました。

昭和22年(1947年)。百福は食用カエルが栄養剤になると思いついてカエルを捕まえてきて調理しました。ところが和室で圧力鍋を爆発させ部屋が台無しに・・・

百福は仁子に怒られてしまいます。

ちょうど次男・安藤宏基を生んだあと体力が落ちていた仁子はカエルで作った栄養食品を食べることになってしまいました。でも栄養補給にはなったようです。

カエルをもとにした栄養食品は「ビセイクル」と名付けられ商品化されました。たいした売上にはならなかったようですが、百福の食品事業の第一歩でした。

百福は製塩所を立ち上げましたが、従業員に支払っていた給料を小遣いだと思っていたので所得税を支払っていませんでした。GHQから脱税容疑をかけられ巣鴨プリズンに入れられてしまいます。仁子は1歳になったばかりの息子・宏基をつれて途方にくれてしまいます。しかも直後に娘の明美も生まれたのですから大変です。

2年後、百福は釈放されました。神田の旅館で久しぶりに一家はそろって団らんをすごしました。

その後、信用組合に出資した百福でしたが、信用組合が破綻。百福は財産を失ってしまいました。借家で暮らす日々でした。

チキンラーメンの開発を支える

百福は財産を失いましたが、事業への意欲は失いません。百福は本格的にラーメンの開発に取り組みました。

百福が面を乾燥させる方法について悩んでいたときです。仁子が台所で天ぷらを上げているのを見た百福は、水で溶いた小麦粉が油の中に落ちるとジュッと音を立てて水を弾くのを見ました。百福はこれをヒントに面を油で揚げて乾燥させる方法を思いつきました。

また仁子の母の須磨が鶏ガラでとったスープでラーメンを作ったところ、鳥嫌いだった宏基がおいしそうに食べました。このとき百福はインスタントラーメンのスープをチキン味にすることを思いついたといいます。

インスタントラーメンは完成に近づきましたが、百福一人の手ではとても間に合いません。人を雇うお金もありません。そこで一家総出でラーメン作りに取り組みました。

スープを作るのは仁子と須磨のしごとでした。家族総出の作業でインスタントラーメンはできました。

百福が「ラーメンの仕事をやるぞ」と言ったとき、仁子は「どうせやるなら日本一のラーメン屋になてください」と言ったといいます。

やがてインスタントラーメンの注文が入り、家族だけでやっていたのでは間に合わなくなりました。工場を借りて製造が始まると仁子は子育てをしながら工場の仕事も手伝いました。

ラーメンが宮様から注文

ある時。仁子が仕事から帰る途中。友人に出会いました。友人から「今、ご主人は何をされてるの?」と聞かれました。

仁子は「ラーメン屋さんです」と答えました。

「主人は将来必ずビール会社のように大きくなるといってます。ラーメンにはビールと違って税金がかかりませんからね」と言ったといいます。

そしてその友人にラーメンを1ケースあげました。ところが、そのラーメンがある宮様の口に入り「もう少しわけてもらえないか」と注文が入りました。

この話を聞いた百福はインスタントラーメンは庶民だけでなく幅広い人に受け入れられるのだと確信したといいます。

ラーメンが売れるとラーメンの製造は高槻の工場に移ります。そのころになるとようやく仁子は家のしごとに専念できるようになりました。

百福の最期を看取った仁子

平成19年(2007年)の元旦は家族全員がそろって新年を祝いました。しかし1月5日の早朝。百福は38℃の熱をだします。百福の異変に気がついた仁子は秘書と連絡して医者を呼びました。その後、百福は病院で治療を受けましたが5日の夕方に生きをひきとります。

百福が息を引き取る最期の瞬間まで一緒にいたのは仁子でした。

その3年後。

平成22年(2010年)。仁子は亡くなります。93歳でした。

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