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「べっぴんさん」村田(田坂)君枝のモデル 村井ミヨ子

べっぴんさん

連続テレビ小説「べっぴんさん」ヒロイン坂東すみれのクラスメートでキアリスの創業仲間。村田君江(田坂君江)のモデルになったのが村井ミヨ子。

生真面目で正義感の強い潔癖症な君江は仲間の良子とは正反対のタイプ。ですが、病弱なところがあり「そんな自分を変えたい」とすみれたちの会社に参加します。

モデルとなったミヨ子も成長できるのか医者も心配するほど病弱でしたが、働いている間に元気になり。ファミリアの編み物部門の基礎を作りました。

村井ミヨ子はどんな人だったのか紹介します。

 

目次

村井ミヨ子 

 

名前:村井ミヨ子(むらい みよこ)
旧姓:中井

生年:大正12年(1923年)3月4日
没年:昭和32年(1957年)
生誕地:東京府東京市麴町区(現在の東京都千代田区)
父:中井栄三郎
  日綿実業(総合商社双日)東京支店長 
母:中井キヨ

 

ミヨ子は未熟児でした。生まれたときはへその緒が首に巻き付いており仮死状態でした。医者も無事に成長するか心配するほどでした。

父・中井栄三郎は妻と共にビルマ(ミャンマー)に行くことになりました。他の子供は親類縁者に預けましたが、ミヨ子はよほど心配だったのか看護婦同伴で連れていくことにしました。

その後、栄三郎はインドに転勤。ミヨ子もインドで暮らしました。

小学校に入る年頃になると、母とともに帰国。他の兄弟とともに兵庫県芦屋市で暮らし始めました。小学校に通いだしても体は弱く、肺炎や風によくかかりました。

父・栄三郎が帰国。環境のいい芦屋市山手町の松林に家を建てて移り住みました。

兵庫県神戸市の松陰高等女学校から松陰専攻科に進学。卒業後はお茶、お花、和裁、洋裁、手芸、ピアノ、油絵などの習いごとにはげみました。お稽古ごと一筋といいくらいでした。

和裁は三越の仕立て屋さんに学びました。油絵は昭和を代表する画家・小磯良平に直接習いました。当時の一流の人たちに教えを受けており、た生半可な習い事ではありませんでした。

ミヨ子は神戸市灘区の松葉先生のアトリエ教室で洋裁を習いました。
当時、坂野惇子は通夫と結婚して神戸市灘区に住んでいました。通夫と惇子は犬を飼っており、散歩させていました。ミヨ子は洋裁教室に通う途中で二人と出会うことがありました。ミヨ子も犬が好きだったので惇子達と親交を深めました。

昭和19年(1944年)。ミヨ子に縁談の話が出ます。相手は陸軍中尉の村井完一でした。完一は13歳年上でした。まだ結婚したくなかったミヨ子は縁談を断りますが「嫌ならいつでも戻ってきていい」という父の説得で結婚することになりました。

西洋式の生活に慣れていたミヨ子は、大阪船場で続く旧家の村井家での生活は苦痛だったようです。テーブルが当たり前のミヨ子には、お座敷で正座しての食事は大変だったようです。

村井家は戦争でも家は被害にあいませんでした。ところが進駐軍に家を接収され、芦屋の実家の庭に家を建てて移り住みました。

坂野通夫が帰国し兵庫県尼崎で暮らすようになると、惇子たちとの交流が再び始まりました。ミヨ子には子供がいませんでしたが、惇子の娘・光子がよくなついていました。光子と一緒に惇子のことを「おかあちゃま」と呼ぶなど親しくしていました。しかしファミリアの社員になっても惇子のことを「おかあちゃま」と呼んでいたといいます。

惇子の実家の別荘にあった道具を引き取った荷物に布や糸、裁縫道具がありました。ミヨ子は惇子に手芸を教えてほしいと頼みました。惇子の開く手芸教室に通いました。

ファミリア創業後

惇子が手芸店を開くとき、ミヨ子も誘われました。夫・完一と父・中井栄三郎は賛成しました。ところがそれを聞いた主治医が自殺行為だと反対します。そのため完一も反対し始めました。結局栄三郎が完一を説得しました。おかげで「無理をせず、迷惑をかけない程度で」という条件でミヨ子もベビーショップモトヤの経営に参加することになりました。

操業者4人に共通するのは、妻や娘が仕事をすることに協力的な人が多かったことです。完一が反対したのは妻の体のことが心配だったからでした。

ベビーショップモトヤでは、店番や雑用を担当しました。体の弱かったミヨ子はベビーショップモトヤに参加しはじめたころは、フルタイムで働くことができませんでした。4時に仕事を終え、5時に夫の完一が迎えに来ました。一週間のあいだに働くことができたのも3~4日でした。月に一度は熱がでるほど病弱でした。

でも店で働くようになってからは次第に体調がよくなっていました。最初は週3~4日の出勤んでしたが。のちには毎日出勤できるようになっていました。完一もファミリアでの仕事を応援するようになりました。

ファミリア時代のミヨ子

ミヨ子は惇子よりも5歳年下でした。創業時の仲間の中では最年少でした。最年長の光子からは16歳も離れています。社員としてやってるというよりもアルバイト感覚で参加していました。

編み物を任されるようになってからも材料の在庫管理をどんぶり勘定でやってたので、社長になった通夫に叱られることもありました。

体調がよくなったミヨ子は坂野惇子や田村江つ子から編み方を教えてもらいます。販売の仕事をしながら編み物の技術を身に着けていきました。ミヨ子の作った編み物は人気になりました。柔らかな風合いが受けたようです。ミヨ子は後輩に編み物を教え、編み物部門の人手を増やしていきました。

ファミリアの編み物部門を育て常務取締役となります。

ドラマの村田君江は、村井ミヨ子とどう違う?

君江の病弱なところはミヨ子と同じです。
モデルになったミヨ子が創業仲間の中で最年少ということもあって、子供っぽいところがあったのに対して。君江はすみれや良子と同じ年でまじめな性格になりました。性格的にはかなり違ってますね。

君江はすみれや良子と同じ女学校の同学年ですが。
ミヨ子は惇子や江つ子とは違う女学校の出身です。ミヨ子が惇子と知り合ったのは、惇子の結婚後でした。

ドラマではデザインやイラストが得意という設定です。君江は油絵を習っていました。一流画家に教えてもらってましたから絵も上手だったと思います。でもミヨ子はファミリアでは主に編み物を担当しました。デザイン関係はむしろ江つ子の担当だったようです。江つ子も絵が得意ですから特徴がかぶってしまいます。だからドラマでは絵の才能を発揮するのは君江の担当になったのかもしれません。

君江が軍国少女という設定はミヨ子の夫が軍人だったことからの発想だと思います。

ミヨ子は夫と13歳年の差がありますが。ドラマでは歳の差があるのは良子夫妻になってます。

ドラマの君江はミヨ子をモチーフに良子のエッセンスを加えたキャラクターになってるようですね。

 

ドラマでは村田君江には息子・健太郎がいます。健太郎はキアリスに入社します。

ファミリアの創業メンバーの次の世代でファミリアに入社したのは。坂野惇子の娘婿・岡崎晴彦、田村光子の次男・田村友彦です。友彦はダイハツに勤めていましたが坂野惇子の娘・光子にファミリアへの入社を勧められたといいます。

田村光子を直接モデルにした人物はドラマには登場しません。村田健太郎は創業メンバーの息子、親の会社に入社、創業者の娘と交流があるという点で。田村友彦のエッセンスを含んだキャラクターとして設定されているようです。

 

 

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