朝ドラ「わろてんか」で兵動大樹が演じる寺ギンのモデルになったのは実在の興行師・岡田政太郎です。
ドラマの公式サイトでは
「芸人を寄席に派遣する「太夫元(たゆうもと)」。今で言えば芸能事務所の経営者である。元僧侶だが「死人にお経を唱えるよりも、生きた人間を笑わせる方がおもろい」と興行の世界に飛び込んだ。伝統を重んじる演芸界で「オチャラケ派」という一団を率いて旋風を巻き起こすが、てんと藤吉にとって、敵か味方か?」
と、紹介されています。
実在の岡田政太郎も、吉本せい(てんのモデル)と協力しつつも敵なのか味方なのかわからない存在でした。
そんな岡田政太郎について紹介します。
寺ギンのモデル・岡田政太郎
岡田政太郎は、大阪府河内郡(現在の東大阪市)で豪農の南野家の次男として産まれました。
ところが、幼いころに父親を亡くし母は旅芸人と駆け落ちしてしまいました。
親のいなくなった政太郎は岡田家の養子となりました。
商家だった岡田家は大阪の玉造(大阪市中央区)で風呂屋を営んでいました。玉造の周辺には寄席や小屋がたくさんあり、政太郎も芸能に興味を持つようになりました。
政太郎は風呂屋を継ぐと、商売の才能を発揮させ大儲けしました。さらに株で資金を増やすと、明治末期には興行師になりました。
色が黒かったため「黒政」、風呂屋を営んでいたため「風呂政」と呼ばれていました。
上方落語界と対決
明治末期、大阪の上方落語界では二つの勢力が争っていました。
桂派と三友派です。
桂派は、伝統的な落語を得意にしていました。名人を多く出し、格調の高い上品な落語で目の肥えた浪速の落語ファンをうならせるような落語が特徴でした。
三友派は、桂派に不満を持った人たちが独立してたちあげた派閥です。伝統にとらわれない派手で陽気な落語を提供していました。
桂派の落語は、目の肥えたファンには受ける一方で、とっつきにくく難しいところがありました。でも、三友派の落語は目新しい表現方法が落語ファンにウケてたちまち桂派を脅かす存在になりました。
そんな桂派と三友派が争っている大阪の芸能界に乗り込んできたのが政太郎でした。
政太郎は桂派でも三友派でもない「反対派」と名乗り、勢力を広げました。
政太郎は、三友派よりも更に庶民ウケする芸能をめざしました。上手・下手は関係ない。とにかく安く見られる芸能をめざしました。
政太郎が集めたのはろくに寄席に出られない二流、三流の芸人ばかりでした。そのかわり、入場料は格安でした。落語だけでなく、物真似や曲芸も取り入れました。
政太郎の経営する富貴停は大流行り。やがて桂、三友派からも噺家を引き抜き、桂派や三友派を脅かす存在になりました。
この時代、大阪では経済が発展し労働者が増えていました。いわゆる「庶民」が増えていたのです。桂や三友派などの上方落語は教養がなければ楽しめません。お金持ちのための娯楽でした。
上方落語は労働者では理解できないし、気軽に見られるほど入場料は安くありません。そこで、庶民で楽しめる娯楽が必要になっていました。その次代の流れにうまく乗ったのが反対派だったのです。
富貴停だけでは芸人をさばききれないほどたくさんの芸人が集まりました。
吉本興業と協力
そんなとき、協力関係を結んだのは吉本泰三でした。泰三は第二文芸館の興行権を買い取ったものの、出演する芸人がいません。そこで反対派から芸人を派遣してもらうことになったのです。
吉本泰三は、芸能が好きで遊び歩いていたときに岡田政太郎と知り合いました。泰三が寄席を経営しようと思ったのも政太郎の影響だったともいわれます。
せいも、泰三と政太郎の提携を歓迎したといわれます。泰三の経営する寄席も大流行。泰三とせいは吉本興業部を立ち上げ寄席を増やしていきます。
やがて、大阪の芸能界は上方落語が没落。岡田政太郎の「大阪反対派岡田興行部」と吉本泰三・せいの「吉本興行部」が支配するようになります。
政太郎の死後・反対派は消滅
しかし、大正9年(1920年)。岡田政太郎がなくなると反対派の勢いにかげりがみえてきます。政太郎の死後、息子の正雄があとを継ぎましたが。政太郎ほど優れてはいなかったようです。反対派は二つに分裂してしまいました。岡田派と吉本派に分かれたというのです。大黒柱を失って動揺している反対派の芸人たちに吉本泰三が勧誘をかけていったともいわれます。
反対派から独立した芸人は「吉本花月連」と名乗り、吉本興業にやってきました。
残った芸人たちは反対派を名乗りましたが、わずか三か月で吉本に吸収されてしまいました。
岡本政太郎と吉本泰三・せい夫妻はビジネスパートナーとして協力していました。しかしそこは冷徹なビジネスの世界です。提携相手に能力がないとわかると手のひらを返すのは当たり前。政太郎が協力した吉本興業によって反対派は吸収されてしまったのでした。
岡田政太郎が一代で築き上げた反対派は政太郎の死とともに亡くなってしまいました。政太郎の死後は、吉本興業が大阪の芸能を支配することになるのです。
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