MENU

わろてんか 北村隼也と加納つばきの出会いの元ネタ・現実は過酷だった

わろてんか

わろてんかではヒロイン北村てんの息子として北村隼也が登場します。

隼也はやがて、加納つばきと出会い恋に落ちます。しかし二人の前には大きな困難が待ち構えていました。

北村てんのモデルになったのが、吉本せい。ということは、北村隼也のモデルは吉本せいの息子・穎右になりますね。吉本穎右と恋におちて子供ができたものの、せいには結婚を認められなかったのが笠置シズ子。

笠置シズ子は東京ブギウギなどで知られる人気歌手です。

企業の御曹司と人気女性歌手という異色の組み合わせ。10歳近い年の差恋愛。

ドラマとは違う吉本穎右と笠置シズ子の悲しいお話を紹介します。

 

目次

吉本の後継ぎとして育てられた吉本穎右(泰典)

吉本穎右は吉本せいの次男。泰典から改名しています。

吉本せいと泰三には2男6女がいました。長男・泰之助が2歳で亡くなったため、次男の穎右が、跡取り息子でした。

穎右が産まれたのは大正12年(1923年)。

その前年に、せいと泰三は一流寄席の金澤停を買収したばかりでした。

穎右が産まれた次の年には夫の泰三が亡くなっています。

吉本興業は事業の拡大中に泰三がなくなり大変な時期でした。せっかく大きくした吉本を守ろうとせいが奮闘していたころです。幼い穎右にはじゅうぶんな愛情をかけることができなかったといいます。

やがて正之助や弘高が頼りになる存在になると、せいにも子育ての余裕が出てきました。

せいは一人息子の穎右にできるだけの愛情をかけて育てました。周囲から見ると溺愛していると思えるほどでした。

しかし、穎右のこころには幼い頃に愛情をかけてもらえなかったという寂しい想いがあったといいます。

穎右は早稲田大学に進学しました。

昭和18年(1943年)。穎右は運命の人と出会います。大阪に帰省する途中、名古屋で公演中の新国劇の辰巳柳太郎を訪ねました。吉本の御曹司だけに芸能人とも交流があったようです。

 

笠木シズ子との出会い

あいさつにいった楽屋でたまたま出会ったのが笠置シヅ子でした。穎右の一目惚れでした。

戦後に「東京ブギウギ」などで人気歌手になる笠置シヅ子。このころからすでに松竹歌劇団の人気歌手として知られていました。

当時のシヅ子は29歳。穎右よりも9歳年上です。当時の20前後の青年が10歳近くも年上の女性に恋するのは珍しいことでした。もしかすると、幼いころに満たされなかった愛情があって、それを満たそうとしていたのかもしれません。

しかし、笠木シヅ子にはあまり印象に残っていませんでした。売れっ子歌手ですから、会った男性ファンの顔をいちいち覚えているはずもありません。

翌日。シズ子のもとに吉本興業の名古屋支店主任が訪れてきました。なんと穎右に会ってほしいというのです。

穎右は普段はもの静かで穏やかな人物だったといいますが、思いついたら行動の早いところがありました。シズ子が好きになった穎右は会社に手を回して、シズ子と会う機会を作ったのです。

シズ子も改めて穎右と会ってみると知的でハンサムだということに気づき、好感をもったといいます。

穎右が明日、大阪の実家に帰ると言うと、「私も神戸に行く用事があります。一緒にいきましょうか」と誘ったといいます。このときにはまだ恋愛感情はなく、お姉さんとして気軽に誘ったつもりだったのかもしれません。

穎右とシズ子は汽車に乗り、名古屋から神戸まで向かいました。穎右はわざわざ神戸まで同行して、シズ子を見送って大阪に帰りました。

この間にシズ子は穎右のことを「心優しく、日本人男性には珍しいフェミニスト」と好意を持つようになりました。

 

結婚を誓うが反対される

その後、二人は東京で会うようになります。二人は姉と弟のような関係から、恋人関係になりました。

ところが、穎右は結核にかかってしまいます。病のおかげで学徒動員は避けられたものの、次第に体は弱っていきました。

その間、シズ子は穎右を看病しました。

昭和20年(1945年)。東京大空襲でシズ子の家が全焼してしまいました。穎右はシズ子のために家を借りて二人で暮らし始めました。二人の家は穎右の叔父・弘高の家の隣でした。弘高が援助して家を借りたのでした。

弘高は穎右とシズ子の関係を知った上で援助していました。姉のせいが知ったら激怒するかもしれない。そう思いつつも、弘高は二人を助けてあげたいと思ったのかもしれません。

やがて二人の関係はせいにも知られてしまいます。「二人は結婚を約束している」ことまで知られてしまいます。

せいは激怒しました。当然、二人の結婚には猛反対。

明治生まれのせいにとって、一人息子が9歳も年上の女性と結婚するのは許せないことでした。

しかも相手は一般の人ではありません。芸能人です。芸能世界を知り尽くしたせいは、この世界で生きる人の中には非常識な人が多いことを知っています。男性遍歴の多く生活が派手な女性芸能人がいることも知っていました。シズ子がそのような人かは関係ありません。

せいは直接シズ子に会ったことはありません。せいの頭の中にあるイメージだけで決めつけていました。

ステージ上のシズ子はアメリカのジャズ風の曲を歌い、派手な踊りが持ち味でした。しかし戦時中には「敵性歌手」の烙印をおされ、仕事が減っていました。そんなステージ上の姿もせいには、派手な女とのイメージを持たせてしまったかもしれません。

しかし戦争が終ると180度変わりました。シズ子の曲はむしろ自由奔放で新しい時代に会う曲として人気になりました。

穎右も大学を中退して吉本興業に入社。弘高のもとで仕事を学んでいました。

二人共多忙になり、会う機会は減っていきました。しかしそれでも二人の愛は変わりません。夫婦同然ともいえる仲になっていました。

穎右のシズ子の別れ

穎右の病が悪化。多忙のシズ子は看病ができません。

穎右は実家に戻り、せいの看病を受けることになりました。

穎右が大阪で療養中、シズ子が妊娠していることが発覚しました。さすがに「子供ができら仕方ない」とせいも二人の仲をみとめることなります。

しかし、穎右の病はますます重くなります。穎右はついに危篤状態になりました。シズ子も出産間近。せいは二人をなんとか合わせたいと思いました。

そこでせいは船を借りようとしました。道路事情の良くない当時は妊婦を安全に運ぶには船がよかったのです。しかし穎右は亡くなってしまいました。シズ子を運ぶ計画は中止。二人は会うことができませんでした。

せいはひどく落胆し、周囲の人が声をかけることもできないくらいでした。

無事出産を終えたシズ子は、一人で子供を育てなからステージに復帰。シズ子は激しく歌い踊りました。そしてこの年「東京ブギウギ」が空前の大ヒット。後に「ブギの女王」と言われる笠木シズ子は、生涯独身を通して穎右の子を育て上げました。

 

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次