連続テレビ小説「わろてんか」にで波岡一喜演じる落語家・月の井団吾は人気落語家という設定。人気者の月の井団吾の獲得にあまりにも高額な給料を払おうとする籐吉に、芸人たちは大反対。
この月の井団吾のモデルとなったのが、桂春団治。
桂春団治とはどんな人だったのか紹介します。
桂春団治とは
天才的な話術で上方落語会最大のスターになったのが桂春団治。
初代といわれることがありますが、有名なのは二代目のほう。二代目が有名になりすぎたのでいつの間にか初代・桂春団治といわれるようになったんですね。
1895年(明治28年)初代・桂文我に弟子入り。三友派の中でもとくに問題行動の多く、先輩たちにも目をつけられていたといいます。それでもめげずに奇抜な行動で客を驚かし話題を集めました。わざとボロボロの服で高座に上がったり、自らの貧乏ネタで笑いをとったり。現在でも関西の芸人は自虐ネタが好きですが、桂春団治はとくにそのような話題で盛り上げるのが得意でした。
道頓堀ダイブを最初に行ったのも、桂春団治だったといわれます。大阪の人に「アホやなあ」と言われながらも人気を集めたのが桂春団治でした。
もちろん噺家としての話術も天才的でした。特徴的なダミ声でスピード感のある落語は客を引き込みました。古典的な落語だけでなくビールや飛行機といった新しいネタにも積極的ででした。
映画や他の演芸に人気をうばわれつつあった落語会で、一人で客を呼べる存在と奮闘してました。三友派というより落語会は桂春団治のおかげで保っているといってもいいくらいでした。
そんな桂春団治に目をつけたのが吉本せいでした。
しかし桂春団治は業界トップの人気者、お金を出したからといって簡単に吉本にくるはずがありません。
ところが、桂春団治には弱点がありました。金使いがとにかく荒かったのです。稼ぐ以上に派手にお金を使いました。
桂春団治が吉本興業入り
大正10年(1921年)ごろには、春団治はあちこちに借金を作っていました。借金には利息がたまり、春団治がくるしくなってきたころ。吉本せいは春団治に声をかけました。吉本が借金の肩代わりをして、前貸金2万円、月給700円を払いました。この時代東京都知事の月給が500円。かなりの高給取りだったことがわかります。
お金の力は大きく、春団治もあっさりせいの軍門に下りました。
春団治獲得の効果は大きく、その後の吉本興業の東京進出、大阪制覇といった吉本の成長を支えた一人になりました。
ところが春団治はトラブルメーカーでした。吉本せいが禁止していたラジオ放送に春団治が勝手に出演したこともありました。激怒したせいは、春団治の財産はすべて差し押さえてしまったのです。春団治は吉本に6000円の借金がありました。春団治は口に紙を貼った写真を新聞に載せ、自らを笑いのネタにしました。でも、さすがの春団治も困り、おとなしく従うしかありませんでした。
しかし、春団治のラジオ出演は評判となり寄席の客も増えました。せいはラジオの宣伝効果を知りました。以後、ラジオを積極的に利用するようになりました。春団治の隠れた功績かもしれません。
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