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ブギウギ:花田鈴子のモデル 笠置 シヅ子2ブギの女王から女優への道

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花田鈴子(福来鈴子)は NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」のヒロイン。

花田鈴子のモデルは 昭和の大スター 笠置シヅ子 をモデルにしています。

ドラマ「ブギウギ」ではそんな笠置シス子をモデルに少女歌劇の時代から戦後の大スターへと成長していく花田鈴子の姿が描かれる予定です。

前回の記事では大阪から東京に来た笠置シズ子が服部良一と出会い、スウィング・ジャズ歌手として人気が出るまでを紹介しました。

今回の記事では戦後の日本でブギの女王と呼ばれ大スターとなった後。
女優に転向してテレビドラマなどに活躍の場を移していく様子を紹介します。

目次

ドラマ「ブギウギ」花田鈴子のモデル・笠置シヅ子の生涯

誕生から終戦までのシズ子の人生はこちら↓
花田鈴子のモデル 笠置 シズ子はスイングジャズの女王

東京ブギウギの大ヒット

夫を失い子供を抱えたシズ子は途方にくれました。シズ子は子供のためにも落ち込ではいられないと芸能界復帰を決意します。

戦争に負けて世の中が落ち込んでいた時代。服部良一は芸能界復帰を目指す笠置シズ子に心を動かされ、世の中を明るくするもの歌ってもらおうと曲を作りました。

1947年(昭和22年)9月。「東京ブギウギ」を大阪梅田劇場で初披露。NHKラジオでも歌が流れ、翌年にはレコードも発売。東京ブギウギは大ヒット。

笠木シズ子は威勢のいい歌声、ダイナミックで派手な踊りでブギを熱唱。戦前のスウィングの女王と言われていた元気な笠木シズ子が戻ってきました。

敗戦とその後の生活苦から暗く落ち込んでいた人々はシズ子の歌うブギを熱狂的に指示しました。

戦前・戦時中は敵性歌手と言われたシズ子ですが。皮肉にも日本がアメリカに敗れてGHQが占領する日本ではシズ子の歌や踊りを制限する者は誰もいません。

シズ子は「大阪ブギウギ」「買物ブギ」などヒット曲を連発していきます。歌のほとんどを服部良一が手掛けました。

弱い立場の女性たちに共感

戦後。生活に困った女性たちの中には娼婦になる人もいました。親を失った子どもの中には靴磨きなどをしてひとりで生きていかなくていはいけない人もいました。

そんな水商売の人たちは夫を失い幼子を育てながら懸命に歌い踊るシズ子に強く共感しました。「ラクチョウのお米」姐さんを中心に熱烈なファンクラブができました。

シズ子もそんな彼女たちの境遇に共感。彼女たちが会いたがっていると知ると、会う機会を作りました。そして彼女たちが社会復帰できるように厚生施設の建設の相談にものりました。

シズ子はスターでありながら戦争で犠牲なった立場の弱い人達に共感できる人でした。

喜劇王エノケンとの出会い

服部良一とともに笠木シズ子に大きな影響を与えた人物がいます。喜劇役者の榎本健一(エノケン)です。10歳以上年上の榎本健一はシズ子にとって芸の師匠のようなものでした。

笠木シズ子は戦後まもなく榎本健一と舞台で共演。その後も多くの舞台で共演しています。

シズ子は歌手です。歌劇は経験ありますが喜劇は得意ではありません。だから芝居をやっても役者のようにうまくできないこともあります。でもシズ子は豊かな表情と大阪弁、旺盛なサービス精神と野性的なところがありました。

榎本健一はそれが面白いと高く評価しました。榎本健一はその良さを引き出すようにアドバイス。

シズ子は榎本健一との共演を通して喜劇役者としても成長していきます。

美空ひばりの悪役になる笠置シズ子

「豆笠置」美空ひばりの登場

笠木シズ子がヒット曲を連発して大人気になっていたころ。ひとりの少女がデビューしました。美空ひばりです。

美空ひばりは笠木シズ子の歌と振り付けをコピー。抜群の歌唱力もあり、美空ひばりは「ベビー笠置」「豆笠置」と呼ばれて話題になりました。

1948年(昭和23年)。シズ子(34歳)は当時11歳の美空ひばりと出会いました。シズ子は自分以上に自分の歌を上手に歌うひばりをかわいがったといいます。

1949年(昭和23年)。美空ひばり側はシズ子のヒット曲「ヘイヘイブギー」の使用許可を求めましたが。笠木シズ子と服部良一は「ヘイヘイブギー」ではなく「東京ブギウギ」を許可しました。というのも「ヘイヘイブギー」は大映映画「舞台は廻る」の挿入歌でレコードが出て間もない頃でした。笠木・服部側としても簡単には許可できない事情もあります。

メジャーデビューした歌手なら持ち歌を持つべきですが。美空ひばりには持ち歌がありません。笠置の人気をアテにしているからです。

ところが「東京ブギウギ」を練習していなかった美空ひばりは舞台で失敗して涙ぐんだと噂が広まり。ひばりの母・加藤喜美枝は笠木シズ子の嫌がらせを受けたと主張してシズ子を悪役に仕立てあげました。

アメリカ講演の影響

1950年(昭和25年)。笠置シズ子と服部良一は6月にアメリカに渡り日系人慰問のための講演を行うことにしました。ところがそれを聞きつけた美空ひばり側は5月に渡米して講演を行おうと計画します。

服部良一のもとにアメリカの興行先から
「笠置シズ子が来る前に美空ひばりが来て同じ歌を歌ったら興行価値が低下するのでなんとかして欲しい」と連絡が入りました。

服部良一は日本著作権協会を通して美空ひばり側に服部作品を歌っても演奏してもはいけないと通知。

ところが福島通人は「笠置と服部にブギを歌うなと言われた」と新聞に発表。笠置シズ子は天才少女 美空ひばりをいじめる悪役にされてしまいます。

美空ひばりのマネージャー福島通人は通知を無視してひばりを渡米させ興行を強行しました。

アメリカ帰りで人気の出たひばりは笠置シズ子のモノマネ歌手から独り立ち。「東京キッド」な独自のヒット曲を出して独立した個性を持つ歌手「美空ひばり」として成長していきます。

笠置シズ子も予定通り4ヶ月のアメリカ講演を実施して帰国しました。

裏に元マネージャーの暗躍?

ひばり側がシズ子の計画を知ったのは山内義富の協力があったようです。山内義富は笠置シズ子のマネージャー。シズ子はお金の管理をすべて山内義富にまかせていました。ところが山内義富は賭博とヒロポン(麻薬の一種)に手を出してシズ子の全て金を使い込んでしまい解雇されました。

手持ちの資金がなくなったシズ子はそれでも税金は払わないといけません(所得税は前年の所得で計算されるから)。シズ子が必死に働きました。

山内義富と美空ひばりのマネージャー福島通人は吉本興業時代からの顔見知りで接点はありました。山内義富はカネに困り福島通人に頼り情報を漏らしたのでは?と言われます。でも今となってはそれを裏付ける証拠はありません。

子供で金儲けを企む大人たち

美空ひばりは歌手デビューするのに持ち歌を与えられず、既に売れているスターのコピーで手っ取り早く稼いでしまおうとたくらむ大人の金儲けの道具にされました。マネージャーの福島通人や美空ひばりの母・加藤喜美枝たちはそれがうまくいかなくなると笠置を悪役に仕立てて世間の同情を集めました。

もちろん、そんなことをしなくても美空ひばりの実力ならスターになったでしょう。

後に加藤喜美枝の証言をもとに自叙伝とされるものや竹中労が書いた「美空ひばり」という本(実際にはろくな取材をしておらず、ひばり信者が加藤喜美枝の証言をもとに書いた神話)が出版され。そのひばり神話の影響もあって「笠置シズ子=ひばりをいじめる悪役」のレッテルを信じている人はいます。

でも、マスコミが正しいとは限らないのは今も昔も同じです。

笠置ブギの時代の終わり

昭和20年代後半には笠置シズ子のブギブームは去りました。その後も歌い続けましたがかつてのようなヒット作は出ません。美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみたち若いアイドルスターが人気になっていました。

笠置シズ子はすでに40歳近く。子持ちのアラフォー女性に厳しいのがこの時代の芸能界と世間です。

笠置シズ子のブギのインパクトはあまりにも大きすぎました。服部良一は笠置シズ子に合うヒット曲を作れなくなっていました。そして世間がブギに飽きた時。笠置シズ子・服部良一コンビの栄光の時代も終わります。

幸い、シヅ子は戦後まもなく喜劇俳優として活動した経験がありました。シズ子は歌のヒット作が出なくても舞台や映画で活躍。「歌う喜劇女優」としての地位も得ています。

エノケンも認めるシズ子の芸やキャラクター性を活かせる道は歌だけではありません。

シズ子は悩みました。このまま歌を続けるのかどうか。

そして世の中はテレビの時代に移り変わりつつあります。

女優「笠置シヅ子」として再スタート

1957年(昭和32年)。43歳の笠置シズ子は歌手を廃業。女優に専念すると宣言。

歳をとって運動量が落ちたシズ子は若い頃のようには踊れなくなっていました。なにしろシズ子の歌と踊りは高いハイヒールを履いたままで激しいダンスを披露します。たぶん今の日本の芸能界で笠置シズ子と同じことをできる人はいないでしょう。

歌だけ、踊りだけでは成り立たない。シズ子が全身を使って表現するものがシズ子の芸なのです。だから自分の思う動きができなくなれば自分の芸ではない。と思ったのかもしれません。

別のスタイルの歌手として生き残る道はあったかもしれませんし、服部良一もそうしてほしかったかもしれません。シズ子はきっぱりと歌を辞めました。服部良一は歌手廃業を決めたシズ子に不満でしたが、後に潔い辞め方だったと認めています。

でも子供もいますし芸能人として活動は続けなければいけません。シズ子は自分を表現できるもうひとつの芸に専念することにして芸名を「笠置シ子」に変えて女優として再スタートしました。

シズ子には戦時中の苦しい時代を生き抜いたアラフォー女性のしたたかさと逞しさがありました。シヅ子は映画会社やテレビ局を訪れて新人女優のギャラで使って欲しいとお願いして回ります。業界では「自分からギャラを下げてくれと言ってきた人はいない」と好意的に受け止められ。歌からドラマやテレビに活動の場が移りました。

笠置シヅ子はラジオ東京の連続ドラマ「あまだれ母さん」に出演。

その後も様々なテレビドラマや映画に出演。ドラマではお母さん役として好評でした。

他にも親しみやすいキャラクター性を活かしてTBS「家族そろって歌合戦」の審査員、CMなどに出演しました。

笠置シヅ子の最期

1981年(昭和56年)。67歳のとき乳癌がみつかり手術。
しかしその後、癌が再発して入院。
1985年(昭和60年)。卵巣癌のため東京都中野区の佼成病院で死去。享年70歳。

 

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