西野キヌは NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の登場人物です。
演じるのは中越典子 さん。
香川で暮らす訳ありの女性です。
ヒロイン・花田鈴子と大きな関わりを持ち鈴子が家族と思っていた人たちとの関係も揺るがす大きな存在です。
花田鈴子のモデルは 昭和の大スター 笠置シヅ子 です。
そして西野キヌのモデルは谷口鳴尾。
ドラマ「ブギウギ」の西野キヌとモデルになった谷口鳴尾 を紹介します。
ドラマ「ブギウギ」の西野キヌとは
名前:西野キヌ(にしのきぬ)
演:中越典子
香川で暮らています。スズの母・ツヤの友人。どことなく寂しそうな訳ありの女性。
かつて大地主の治郎丸の家で女中をしていました。でも治郎丸はキヌのことを快く思っていません。そのためキヌは肩身の狭い思いをしています。
スズ子が法事で訪れた親戚の家で出会います。
演じるのは中越典子さん
佐賀県佐賀市出身。1979年生まれ。
連続テレビ小説「こころ」
中越典子さんは2003年の連続テレビ小説「こころ」のヒロイン・末永(朝倉)こころ を演じました。そのとき こころの母を演じたのが伊藤蘭さん。「ブギウギ」でヒロインを演じる趣里さんの母親です。不思議なめぐりあわせですね。
主な出演作
「警視庁捜査一課9係」、「必殺仕事人」など。
モデルは笠置シヅ子の実母・谷口鳴尾
笠置シヅ子には母親が二人います
花田鈴子のモデルが 笠置シヅ子。
実は笠置シヅ子には母が二人います。
産みの親の 谷口鳴尾
育て親の 亀井うめ です。
花田ツヤ のモデルになったのが養母の亀井うめ。
そして 谷口鳴尾 のモデルになったのは産みの親・谷口鳴尾です。
生みの親・谷口鳴尾 とは
谷口鳴尾(たにぐち なるお)は香川県大川郡引田村(香川県大川郡引田町→香川県東かがわ市)出身。
相生村でも由緒ある家の娘です。
鳴尾はとなり村の相生村にある三谷家で住み込みで和裁を習いながら家事見習いをしていました。三谷家は豪農で代々製糖業を営んでいました。
三谷家には跡継ぎの陳平がいました。陳平は鳴尾の5歳年上です。鳴尾は陳平と恋愛関係になり、子供ができます。ところが三谷家の人たちは二人の結婚を認めません。
陳平の母は鳴尾の和裁の先生です。まさか教え子と息子がデキてしまうとは思ってなかったのでしょう。
しかし陳平は25、6歳で病死してしまいます。
鳴尾は実家に戻され、引田の実家で娘のミツエ(後の笠置シヅ子)が産まれました。
このとき鳴尾は18、9歳。鳴尾は途方にくれてしまいます。
亀井うめに娘をひきとってもらう
ところが鳴尾は乳の出が悪く、そのころ出産のために実家に戻っていた亀井うめにお乳を与えてもらうことになりました。
亀井うめは引田の中島家の娘。中島家はメリヤス・手袋工場を経営していました。うめは同じ村の亀井音吉と結婚。大阪で暮らしました。次男の正雄の出産のために香川の引田に戻っていました。
うめは鳴尾の頼みを快く引き受けました。
そして詳しいいきさつは分かりませんが、うめが鳴尾の娘を引き取ることになりました。
うめと音吉の間にはすでに男の子が二人います。女の子はいません。うめは子供好きで人情味の溢れる人物だったようで、困っている鳴尾を見捨てることができなかったのでしょう。
うめは鳴尾に「虫ひとつ食わせず、あんじょう育てるさかい、心配せんとあんたの身を立てることに精をだしなはれ」と言ってミツエを引き取りました。そしてミツエとうまれたばかりの実の息子を抱えて大阪に戻りました。
当時は家がまずしくて養子・養女になった人もいました。人々が助け合いながら行きていた時代です。
ミツエは静子と名前を変え、亀井家の娘として育てられました。
静子は鳴尾の事は知らずに育ち、うめが実の母だと思っていました。
そして大阪の松竹の松竹歌劇部に入団。「三笠シズ子(後に笠置シズ子に改名)」としてデビューしました。
一方の鳴尾は近所の娘たちに裁縫を教えていました。
シヅ子と鳴尾の再会。
昭和6年(1931年)。シズ子が17歳のころ。
シズ子は親戚の法事に出るように言われ、香川県相生村の三谷家を訪れました。三谷陳平という「親戚」の17回忌だというのです。
シズ子は親戚の人たちと法事に出席。その後、シズ子は集まった人たちに頼まれて少女歌劇団で習った「春の踊り」「醍醐の花見」を踊りました。
その後。シズ子は数人の親戚の人たちが話しているあることを、密かに聞いてしまいます。なんと三谷陳平というのはスズ子の実の父親だというのです。亀井夫妻が実の両親だと思っているシズ子はショックを受けました。
でも弟の正雄(このとき既に病死)と誕生日が一ヶ月しか違わないことなど、引っかかるところはあったので薄々は感じていたようです。
父は亡くなっていることがわかりました。でも実の母は生きているようです。
スズ子は叔母さんから「谷口鳴尾」という人が実の母だと聞き出しました。鳴尾はこの法事にも来ていました。
翌日。スズ子は鳴尾の家を訪れました。なぜ自分を捨てたのか聞きたかったようですが。鳴尾は痩せた女性でした。鳴尾は涙を見せることなくしっかりと座ってスズ子と向き合いました。その鳴尾を目の前にしてスズ子は切なくなり自分が実の娘だと言い出せなくなりました。そして鳴尾とスズ子は親子だと名乗り合うこともなく別れました。
スズ子は大阪に戻った後も、亀井音吉・うめ夫妻には実の両親を知ったことを言わずに暮らしました。
両親のことを詳しく知った笠置シズ子
戦後。昭和25年(1950年)。笠置シズ子(三笠シズ子から改名)が歌手デビューしてスタートしての道を歩んでいたころ。突然、父の知り合いという人から連絡を受けました。
それは南原繁という人物で、父・三谷陳平の子供の頃からの友人だというのです。
南原繁は戦後の東京大学で初めて総長になった人物です。南原繁も笠置シズ子も多忙でなかなか会えませんが、マスコミに知られないようにこっそりと会いました。
南原繁はマスコミの伝える笠置シズ子の生い立ちが事実と違うのを知って、直接シズ子に本当の両親のことを知らせようとしたのです。そしてシズ子は父・陳平と母・鳴尾の詳しいいきさつを聞きました。
鳴尾は女中ではなく陳平の母の和裁の生徒だったことや、二人は純粋な恋愛であり、陳平が遊び半分で鳴尾に手を出したのではないことを伝えます。南原繁は三谷陳平の親友だったので陳平のことを誤解してほしくなかったのです。
そうして笠置シズ子は実の両親の詳しいいきさつを知りました。
その後、南原繁は笠置シズ子の後援会会長を引き受けシズ子を応援します。シズ子も南原繁を慕いました。シズ子にとってもうひとりの父親のような存在になりました。
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