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[皇帝の恋]後宮の支配者・太皇太后は実在の人?モデルは誰?

皇帝の恋人物

中国ドラマ「皇帝の恋・寂寞の庭に春暮れて」には太皇太后(たい こうたいごう)が登場します。

皇太后よりも更に上の立場の人ですね。

でも日本語版字幕では「太皇太后」と表示されるだけで名前が出てきません。

でもちゃんと実在する人物です。

ドラマ「皇帝の恋」の太皇太后のモデルになったのは、孝荘文皇后 皇后 博爾済吉特(ボルジギト)氏

康煕帝からは「祖母上」と呼ばれています。
康熙帝の父・順治帝の生母だからです。
崇徳帝(ホンタイジ)の側室でした。

ホンタイジの正妻は孝端文皇后ジェルジェル。
なんとブムブタイの叔母です。

男子のいなかったジェルジェルが、若いブムブタイを呼び寄せてホンタイジの側室にした経緯があります。

ブムブタイはホンタイジやドルゴン亡き後の大清帝国の宮廷で大きな影響力を持つ女性です。

日本では清朝の皇太后といえば西太后(慈禧太后)が有名ですが。中国では孝荘文皇后も同じくらい有名です。

孝荘文皇后とはどのような人物だったのか紹介します。

目次

孝荘文皇后(太皇太后)とは

本名は ブムブタイ

ドラマに登場する皇太后は順治帝の正室。
歴史上は 孝荘文皇后 博爾済吉特(ボルジギト)氏といいます。

本名は「ボルジギト・ブムブタイ

ボルジギト が姓で
ブムブタイ が名前です。

変わった名前ですね。

皇太后はモンゴル出身なのです。
だから中国人の名前や満洲人とは全然違います。

ドラマ「王家の愛・侍女と王子たち」では若い頃の彼女が「布木布泰(ブムブタイ)」の名で登場しています。

出典:amazon

でもヒロインはブムブタイの侍女のスマラ
「皇帝の恋」では太皇太后の側にいつもいる侍女がスマラです。

 

孝荘文皇后は死後贈られた称号。
側室時代は 荘妃 でした。

皇太后時代の称号は 聖母皇太后

太皇太后時代の称号は 聖祖母太皇太后

称号に聖母が付いてます。そのくらい存在が大きかったのです。
ちなみにキリスト教とは関係ありません。
仏教徒です。

実は地味だった太皇太后

肖像画も残っています。

こちらは正装姿。

ブムブタイ

モンゴル出身らしく丸い顔立ちです。

私服姿もあります。

ブムブタイ 便服

正装の豪華さと比べるとかなり質素です。

というより地味。

後宮の最高権力者でもこの格好です。

これは晩年の姿。夫のホンタイジや息子の順治帝も亡くなっています。それでも後宮の最高権力者として後宮を仕切っていましたから、出家生活はしていません。

普通なら綺麗に着飾ったところを描いて欲しいと思うのですが。あえてこういう普段着姿を描かせたのも、あまり見た目にはこだわらない性格だったのかもしれません。

ブムブタイはモンゴル・ホルチン部の部族長ジャイサンの娘です。後金のホンタイジと結婚するまではモンゴルの草原で暮らしていました。

ゴテゴテした服はあまり好きではないのかもしれませんね。

ドラマなんかでは日常でも色とりどりの豪華な服を着ています。

でも康煕帝時代の宮廷はわりと質素でした。臣下の前では威厳を保つために豪華な衣装を着ていますが、日常的には豪華な服な必要ないんですね。

清朝の衣装や髪型、飾りが豪華になるのは乾隆帝から後の時代。

康煕帝・雍正帝の時代までは質素でした。

中国ドラマも時代考証はテキトーです。

太皇太后としてのブムブタイ

ここでは太皇太后時代のブムブタイについてお話します。

順治帝の死後。康熙帝が即位。でもまだ8歳でした。

康煕帝は太皇太后の教育を受けて育ちました。

康煕帝は子供の頃から本が大好きでした。それも太皇太后の教育の影響です。

でも皇帝になってもまだ子供。政治はできません。

重臣のオーバイが力をつけて独裁的な権力をもちました。

史実では15歳の康煕帝が仲間たちと協力してオーバイを捕らえた事になっています。

歴史学者の中には、若い康煕帝がそこまで策略をめぐらせることができたのか疑問だという人もいます。

オーバイ逮捕は太皇太后ブムブタイの筋書き?

ドラマ「皇帝の恋」では単純に少年たちが取り囲んで力でねじ伏せた形になってます。

実際には。

康煕帝は普段から十代の侍衛たちとモンゴル相撲ばかりして政治には関心を見せなかった。

事前にオーバイの配下に命令を出して都の外に派遣した。

紫禁城の警備を皇帝に忠誠を誓う者で固めた。

十代の侍衛だけがいるところにオーバイを何度も呼び寄せた。

決行当日はいつものように康熙帝がオーバイを呼び出し。

いつものように十代の侍衛しかいない所にオーバイが油断して建物に入ってきたところを、皇帝が目配せをして若い侍衛たちが一斉にオーバイを襲って捕まえた。

という手順をふんで捕まえています。

これを15歳の康熙帝が一人で考えたらかなりの策士です。

ブムブタイが考えて康煕帝たちに指示していたのかもしれませんし、アドバイスはしたかもしれません。

ブルニ親王の反乱を鎮圧

康煕12年(1673年)。呉三桂たち三藩の反乱が起きました。
中国南部が主な戦場だったので清の軍隊が反乱鎮圧に向かいました。

ところが北京や北部が手薄になってしまいます。

そのスキをついてブルニ(布爾尼)親王が反乱を起こしました。
ブルニ親王はアブダイの長男。

アブダイはオーバイが粛清されたのと同じ年に逮捕されて幽閉されていました。

理由はアブダイが康煕帝に会おうとせず反抗的だったから。

皇帝の命令を無視して会うのを断ったら謀反を疑われても仕方ありません。

「皇帝の恋」のドラマのネタになった事件です。

でも史実では康煕帝はアブダイを幽閉しただけ。

さすがに一家の粛清まではしていません。

このときは。

チャハル親王の地位は息子のブルニが継ぎました。でもやっぱりブルニは不満です。

呉三桂の反乱が起きるとそのスキにブルニ親王は弟のルブズン(羅布藏)と一緒に反乱を起こしました。父のアブダイが囚われている盛京を襲撃して父を助け出そうしました。

ブルニ親王は他のモンゴル部族にも反乱を呼びかけました。

でも、誰も一緒に挙兵してくれません。

このとき太皇太后ブムブタイは実家のモンゴル・ホルチン部と連絡をとり反乱鎮圧のため軍を派遣するように依頼しました。ブムブタイのよびかけでホルチン部と他の部族は清朝側につきました

結局、ブルニ親王は自分たちの兵3000だけで戦って敗北。戦死します。その後、父アブダイは処刑されました。

アブダイ一族が粛清されるのは反乱の後です。結局は粛清されるんですけどね。

ちなみに「皇帝の恋」では、ルブニは長慶・良児の兄という設定。1話で父アブダイと一緒に死亡しました。

もしホルチン部や他のモンゴル部族が清朝に味方しなかったら?

もし他の部族がブルニ親王に味方したら?

北京はアブダイを救出したブルニ親王軍と、呉三桂軍の挟み撃ちになってしまいます。

康煕帝最大のピンチを太皇太后が救ったのです。

ホルチンや他のモンゴル部族を味方にしたのは太皇太后の手柄ですから、康煕帝も太皇太后の影響力を認めるしかありません。

満洲人とモンゴル人の同盟はヌルハチ~ホンタイジ時代からの伝統です。そうしないと人口の少ない満洲人だけでは広大な中国は支配できません。

ヌルハチ~ホンタイジの意志を受け継いでいるのが太皇太后ブムブタイ。

ブムブタイは息子の順治帝の教育はうまくいかなかったかもしれません。その教訓もこめて孫の康煕帝はしっかりと教育したのでしょう。

康煕帝は幼い頃から太皇太后の教え受けてきたので順治帝以上に太皇太后の影響を受けています。

太皇太后は
康煕帝の祖母。
康熙帝の教育者。
後宮のトップ。
そして太皇太后の後ろにはモンゴル軍が付いています。

歳を重ねて自分で軍を率いてジュンガルと戦った頃なら違うかもしれませんが。若いころの康煕帝にとっては太皇太后の存在は大きすぎるのです。

幼い頃から太皇太后の教育を受けているのでよほどのことがない限り太皇太后に逆らう気もおきないでしょう。

太皇太后があれほどの影響力を持っているのは、そういう理由があるからです。

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