花田鈴子(福来鈴子)は NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」のヒロイン。
演じるのは趣里 さん。
すでにNHKから公式発表があるように 花田鈴子は 昭和の大スター 笠置シズ子 をモデルにしています。
笠置シズ子は戦後の暗い時代に「東京ブギウギ」などのヒット曲で日本を明るくした大スター。でも戦前には淡谷のり子と並ぶスター歌手だったことは意外と知られていません。
ドラマ「ブギウギ」ではそんな笠置シズ子をモデルに少女歌劇の時代から戦後の大スターへと成長していく花田鈴子の姿が描かれる予定です。
タイトルの「ブギウギ」も多くの人を明るくしたいという想いがこめられているそうです。
ドラマ「ブギウギ」の花田鈴子とモデルになった笠置シズ子を紹介します。
ドラマ「ブギウギ」の花田鈴子とは
花田鈴子(はなだ すずこ)は香川生まれの大阪育ち。
芸名は福来鈴子。
実家は大阪の下町で銭湯を営んでいます。
子供のころから歌や踊りが大好き。
大阪・道頓堀の梅丸少女歌劇団(USK)に入団。歌と踊りの才能が開花。
東京に出た花田鈴子は作曲家・羽鳥善一と出会い、大スターへと成長していきます。
花田鈴子を演じるのは 趣里(しゅり)さん
趣里(しゅり)さんは女優
1990年生まれ。
水谷豊と伊藤蘭の娘です。
子供のころからクラシックバレエを習っていました。ドラマの中でみせる花田鈴子のダンスにも、バレエで鍛えた趣里
ところがアキレス腱断裂、足首の剥離骨折で以前のようには踊れなくなりバレリーナの夢を諦め。
その後、母の影響もあり演劇に興味を持ち女優になりました。
3年B組金八先生ファイナル直前同窓会スペシャルで女優デビュー。
舞台での活動が多かったようですが、2015年以降はテレビ、映画への出演も増えています。
連続テレビ小説
「とと姉ちゃん」藤ヶ谷寿美子
映画
「生きてるだけで、愛」寧子
子供時代は 澤井梨丘 さんが演じます。
笠置 シヅ子 とは?
笠置 シヅ子(かさぎ しづこ)は日本の歌手、女優。
生年:1914年(大正3年)8月25日
没年:1985年(昭和60年)3月30日
本名:ミツエ → 亀井志津子 → 亀井静子(かめい しずこ)。
芸名:三笠シズ子 → 笠置シズ子 → 笠置シヅ子
香川で生まれて大阪で育つ
1914年(大正3年)。香川県大川郡相生村(香川県東かがわ市引田町)で生まれました。
父は三谷陳平。母は谷口鳴尾。生まれてまもなく父が病死。母・谷口鳴尾は赤子のミツエを連れて実家に戻りました。
そのころ引田(香川県東かがわ市引田町)で工場を営む中島家当主の妹・亀田うめは結婚して大阪で暮らしていましたが。出産のために香川に帰省していました。乳の出が悪かった鳴尾は、うめに頼んでミツエに乳を与えてもらいます。その縁でミツエは亀田うめの養女になりました。
ミツエは志津子(後に 静子と改名)名前を変え大阪で米屋を営む亀田夫妻の娘として育てられました。
亀田夫妻は米屋から銭湯屋に商売を変えました。
静子は幼いころから歌が大好き。銭湯の客に歌や踊りを披露して評判になっていました。
少女歌劇から歌手へ
小学校卒業後。静子は宝塚音楽歌劇学校を受験しますが、背が低く痩せ型だったので歌の稽古に耐えられないという理由で不合格になりました。
落胆する静子でしたが、近所のおばはんが「道頓堀に宝塚みたいなものができた」と教えてくれたので「松竹楽劇部生徒養成所(後のOSK)」の事務所に駆け込み宝塚を不合格になった悔しさと歌や踊りへの情熱を訴えて採用されました。
静子は「三笠 静子」の芸名で娘役としてデビュー。
1933年(昭和8年)。劇団が「松竹少女歌劇団(SSK)」に改名。
「秋のおどり・女鳴神」に出演。松竹少女歌劇団の人気女優になりました。
1934年(昭和9年)。日本コロムビアから「恋のステップ」レコードデビューしました。
1935年(昭和10年)には「笠置 シズ子」に改名しました。
東京で服部良一と出会いスウィング・ジャズの女王になる
1937年(昭和12年)。東京の松竹楽劇団(SGD)が設立。
1938年(昭和13年)。作曲家・服部良一がSGDの副指揮者になりました。コロムビア専属作曲家の服部良一はすでに淡谷のり子「別れのブルース」で大ヒット曲を生み出し注目を集めていました。
笠置シズ子もSGDに移籍になりました。
服部良一が楽屋で見たシズ子の姿は小柄で冴えない女の子でした。ところがシズ子は舞台に上がると3センチ付けまつ毛と派手な踊りと歌で強烈なインパクトを残しました。指揮者の立場で見ていた服部はシズ子に圧倒され、すっかりシズ子に魅了されます。シズ子は服部から歌手としての指導を受け本格的なスウィング・ジャズ歌手として活動開始しました。
スウィング・ジャズとはジャズのジャンルのひとつ。10人以上の大人数の楽団で演奏、テンポが早く、陽気で踊るのにピッタリな音楽です。
日本にもアメリカのスターのようなジャズ歌手が登場した!と話題になり。「スヰングの女王」と呼ばれました。
東宝への移籍問題
1939年4月(昭和14年)。東宝はシズ子を引き抜こうとしました。かつてSDGに所属して今は東宝に所属している益田貞信から誘われました。シズ子は病気療養中の養母のうめの治療費がかさみ、益田に恋していたこともあって高額の契約書にサインしてしまいました。
それを知った松竹の上層部は激怒。連れ戻されたシズ子は半ば監禁状態になり、服部良一が東宝と交渉してなんとかシズ子は松竹に残ることになりました。
この時期、芸能人の移籍トラブルが多発して問題になっていました。それだけ芸能界の競争も激しかったのでしょう。
1939年9月(昭和14年)。服部良一に誘われて日本コロムビア専属歌手になりました。服部から曲を提供され松竹の舞台で歌うようになります。
戦時中の笠置シズ子
戦時下体制で活動が制限される
しかし次第に戦争の気配が近づき贅沢は敵だとされる風潮が強まり。派手な踊りのシズ子は当局から目をつけられ、ジャズは「敵性音楽」とみなされ警察から呼び出されて「歌ってはいけないと」注意を受けることもありました。マイクの前で3尺(約120cm)四方ははみ出していけない。直立で歌うこと。などと注文をつけられました。
1941年(昭和16年)。SGD松竹楽劇団が解散。その後は服部良一の援助を受けて「笠置シズ子とその楽団」を結成。しかし「敵性歌手」の烙印を押されたシズ子は東京の中心部で活動ができなくなり、地方巡業や内地の工場への慰問講演を行いました。ジャズが禁止になったので服部良一が新しい歌を作りそれを歌いました。
吉本穎助との出会い
1943年(昭和18年)。地方を巡業していたシズ子は名古屋で吉本穎助(よしもとえいすけ)と出会いました。吉本穎助は吉本興業の創業者吉本せいの次男。当時はまだ大学生でした。
シズ子のファンだった吉本穎助は頻繁にシズ子の家に来るようになり。シズ子は9歳年下の穎助を最初は弟のように思っていましたが、すぐに2人は相思相愛の関係になりました。シズ子と穎助は結婚を近い会いますが、穎助の母・せいが二人の結婚に反対しました。
1944年(昭和19年)。戦争が悪化するとマネージャーの中島がシズ子に無断で勝手に楽団を売約。楽団を失ったシズ子は吉本興業の助けを借りて活動を続けました。
1945年(昭和20年)5月。東京大空襲。京都で講演していたシズ子は無事でしたが東京の家や家財が焼かれて無一文になりました。同じように空襲で東京の家を失った穎助とともに知人の家を借りて暮らしました。
1945年(昭和20年)8月15日。終戦。
1945年(昭和20年)11月。シズ子は東京での芸能活動を再開。
有楽座で榎本健一(エノケン)との共演するなど忙しい日々が始まりました。
1946年(昭和21年)に妊娠していることがわかりましたが。吉本せいから結婚の同意は得られません。出産のため引退を決意。
1947年(昭和22年)5月。結婚できないまま穎助が結核で亡くなってしまいます。
6月。娘の亀井エイ子が産まれました。
夫を失い子供を抱えたシズ子は途方にくれました。シズ子は子供のためにも落ち込ではいられないと芸能界復帰を決意するのでした。
続きはこちら。
花田鈴子のモデル 笠置シヅ子2ブギの女王から女優への道
コメント