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光る君へ:散楽の「トウの三兄弟とコウメイ」にはモデルがあった

光る君へ

大河ドラマ「光る君へ」第1話ではトウの三兄弟とコウメイの話が出てきます。

街角で散楽師が演じる芸能のネタなのですが。実はこの話にはモデルになった事件があります。

 

第1話では街に出たまひろは散楽という芸能を見る場面があります。そこで演じられていたのが、トウの3兄弟がコウメイという人物を陥れようとして逆に反撃を受ける劇でした。

コウメイとトウの3兄弟は貴族政治に不満を持つ散楽一座が藤原氏へのあてつけ・批判として作った劇です。

ドラマオリジナルの演劇ですが。散楽は平安時代には存在した芸能ですし、コウメイにはモデルになった人物がいます。

目次

散楽(さんがく)とは

散楽(さんがく)とは人々を楽しませる芸能のことで。軽業・曲芸・奇術・踊り・人形劇・物真似・手品など様々者がまざったものをまとめた言い方です。

平安時代には庶民の娯楽として楽しまれました。

もともとはペルシャや中央アジアなどの西域から中国に伝わった芸能が中国に伝わったもの。それらの芸能が隋の時代に中国で漢の時代からあった芸能とまざりあって散楽と呼ばれるようになったと言います。

日本には奈良時代に大陸から伝わったといわれますが、それ以前に伝わっていた可能性もあります。

奈良時代には宮中でも散楽が行われ、専門の散楽戸という部署がありました。でも低俗で下品だというので桓武天皇の時代に朝廷の部署としては廃止。散楽戸廃止後は庶民の娯楽として広く民間で演じられました。

その後、散楽は日本古来の芸能と混ざり独自に発展。様々なジャンルの芸能に別れていきました。鎌倉時代には散楽の呼び方は廃れますが。猿楽・田楽という形で受け継がれます。やがて猿楽・田楽集団の中から能・狂言・歌舞伎などの芸能が誕生しました。

 

モデルになった事件「安和の変」

平安時代にはコウメイとトウの3兄弟の事件のモデルになった出来事がありました。

冷泉天皇の時代。

病弱な冷泉天皇には子がいなかったので村上天皇の皇子から皇太子を選ぶことになりました。候補になったのは為平親王と守平親王。年長者の為平親王が皇太子になるかと思われました。

ところが969年(安和2年)。橘繁延と源連が謀反を計画していると密告があり調査が行われました。すると源高明も謀反に加担していることになってしまいます。

源高明は大宰府に左遷されました。

冷泉天皇は退位。守平親王が即位。円融天皇になりました。

高明は2年後に罪を許され京に戻りますが政界を引退。隠居生活をおくりました。

源高明の追い落としを狙った藤原氏の陰謀?

為平親王は左大臣・源高明の親戚(高明の娘が為平親王のきさき)源高明の力が強くなるのを恐れた藤原氏の陰謀だとされます。

守平親王(円融天皇)の母・安子は藤原師輔の娘。円融天皇は藤原氏とは縁の深い人物です。

円融天皇の時代、権力を握ったのは藤原師輔の息子の伊尹・兼通・兼家でした。

そのため藤原氏は源高明に濡れ衣を着せて左遷。自分たちが育てた守平親王を新しい天皇にしたと言われます。

 

コウメイのモデル源高明

ドラマ「光る君へ」第1話で演じられる散楽でモデルになったのは以下の人たち。

コウメイのモデル:源高明。

トウ三兄弟のモデル:藤原伊尹・兼通・兼家。

史実では源高明は敗北。藤原伊尹・兼通・兼家たちが権力を握りましたが。歴史上の敗者に同情して物語を語り継ぐのはよくあることです。

源高明は「源氏物語」の光源氏のモデルのひとつになったとも言われる人物。

源高明は醍醐天皇の皇子。臣籍降下して源氏になり若くして高い地位につき。左大臣になりました。娘を親王に嫁がせましたが。政争に敗れて左遷。

光源氏が須磨に左遷されるところまでの経緯に似ています。

源高明は左遷先から戻ってきても政治からは遠ざかりました。でも光源氏は復活してさらに力を得ます。

紫式部の若いころは円融天皇の時代でした。源高明のできごとは都の人々にとってはつい最近のできごとです。源氏物語には紫式部が見聞きした様々な事件やできごとをネタにしている部分があります。源高明の事件も源氏物語の創作に影響を与えた可能性は高いです。

 

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