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虎に翼:星朋彦のモデルは初代最高裁判所長官 三淵忠彦

虎に翼

星朋彦(ほし ともひこ)は NHK朝の朝ドラ(連続テレビ小説)「虎に翼」の登場人物。

演じるのは 平田満さん。

星朋彦は初代最高裁判所所長。
佐田(猪爪)寅子にとっては同じ業界の人とはいえ、なかなか合うのは難しい人物。
でも後に意外な知り合いになります。

星朋彦のモデルになったのは三淵忠彦。

ドラマ「虎に翼」の 星朋彦とはどのような人物でしょうか。

ドラマの星朋彦とモデルになった三淵忠彦について紹介します。

目次

ドラマ「虎に翼」の星朋彦とは

名前:星朋彦(ほし ともひこ)
演: 平田満
 朝ドラは「君の名は」「純情きらり」「芋たこなんきん」「エール」
 などに出演。

 

星朋彦のモデルは三淵忠彦

初代最高裁判所所長という立場から判断すると。

星朋彦のモデルは三淵忠彦(みぶち ただひこ)で間違いないでしょう。

三淵忠彦は明治13年(1880年)岡山で生まれました。

東京帝国大学に入学しますが。両親と弟を亡くし、学業を続けるのを断念。退学しました。

でもその後、京都帝国大学に入学。卒業後は東京地方裁判所の判事を務めました。

大審院(現在の最高裁判所)の判事や東京控訴院では部長も務めています。

45歳のとき判事を退官。

三井信託株式会社の法律顧問になりました。

大正11(1922年)に信託業法が制定。
三井信託株式会社では法律の専門家が必要になっていたのです。

60歳のとき。法律顧問を辞任。

その後は隠居生活を送っていました。

最高裁判所所長になる

戦後。

日本国憲法が制定されると
昭和22年(1947年)5月には戦前にあった大審院は廃止され最高裁判所が設立されました。

そこで誰を初代長官にするかが問題になり。当時の片山内閣は三淵忠彦を選びました。すでに引退しているとはいえ現役時代の三淵忠彦の仕事ぶりが高く評価されたようです。

昭和22年(1947年)8月。三淵忠彦は最高裁判所の初代長官になりました。

 

裁判官の待遇を改善

当時、裁判官の報酬は低く。それだけでは満足に家族を養えない人もいました。そのため判事を止める人もいました。

裁判官が闇米を拒否して餓死するという事件も起きています。

三淵忠彦は裁判官の待遇改善に取り組み、国に報酬の増額を要求。裁判官の法律に関する法律制定のきっかけを作りました。

忠彦は晩年は内臓腫瘍に侵され療養生活を送りました。8ヶ月間欠席して国会に問題になることもありましたが。その時は退任にはならず。

一度復帰したもの、また倒れて入院。

病床で定年を迎えました。

昭和25年(1950年)6月。他界しました。享年70歳。

三淵嘉子との関わり

「三淵」という名字でも分かる通り、三淵嘉子とは深い縁があります。
でも三淵忠彦と嘉子が親族になるのは忠彦の死後です。

 

三淵忠彦が最高裁判長官になったころ。

和田(三淵)嘉子は最高裁判所民事局に配属され民法改正の作業に関わり、その後は家庭裁判所設立の仕事に関わっていました。

でもこのころの三淵忠彦と嘉子は面識はありません。

昭和23年(1948年)。嘉子は突然、三淵忠彦から呼び出されました。

三淵忠彦は島田鉄吉から嘉子のことを聞いていました。
島田鉄吉は嘉子の大学時代の恩師です。島田鉄吉は三淵忠彦と交流があり、嘉子のことを話していました。そこで興味をもった三淵忠彦は嘉子に会ってみようと思ったようです。

それがきっかけとなり。嘉子は三淵忠彦が書いている民法の本の改定作業を手伝うことになりました。

その後、嘉子はアメリカ出張が決まりアメリカに行ってしまいますが。

嘉子がアメリカに行っている間に三淵忠彦が亡くなってしまいます。

三淵忠彦の訃報をアメリカで聞いた嘉子は帰国後、三淵家を訪れ弔問しました。

そのときに忠彦の息子・幹太郎と知り合ったと思われます。

その後、二人は付き合い嘉子と幹太郎は結婚します。

 

ドラマではすでに面識あり今後の展開は?

 

ドラマでは星朋彦はすでに佐田寅子と会ったことがあります。星朋彦は寅子の家裁準備室への異動を直接伝えました。

今後は星朋彦の本の仕事を寅子が手伝うのでしょうね。

とすると朋彦の息子・航一との出会いもあるかもしれません。

 

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