NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の第3集「桃色争議や!」では大きな出来事が怒ります。
今では労働争議をやる人は少ないので女性の劇団員が会社を相手に闘うなんて信じられないかもしれません。でも実際にあった話を元にしています。
ドラマブ「ブギウギ」ではUSKは一部の劇団員を解雇や給料を削減しようとします。それに対して大和礼子たち劇団員は反対。ストライキを決行。山寺に立て籠もって抵抗します。この騒動を劇中では「桃色争議」と呼んでいます。
この話のもとになったのは昭和8年(1933年)に松竹で起きた労働争議です。この騒動は当時のマスコミが「桃色争議」と呼びたいへんな話題になりました。
ドラマのエピソードのモデルになった史実の「桃色争議」を紹介します。
史実の 桃色争議
きっかけ
昭和の初期。日本は大不況(昭和恐慌)に襲われました。その後経済は立ち直りつつありましたが、まだ苦しい会社はありました。
昭和7年(1932年)。松竹は映画活弁士、楽士を解雇。このとき解雇に反対する人たちと会社の間で労働争議が起こりましたが、会社側が勝利しました。
昭和8年(1933年)。松竹は松竹少女歌劇部の楽士の一部を解雇。全員の給与を削減すると一方的に発表しました。
歌劇部員は怒って会社と闘うことを決定します。
東京では水の江瀧子たちがストライキ
6月14日。水の江たちは新聞記者を集めて記者会見を開き「絶対反対」と発表。男役スターの水の江瀧子を委員長、津阪織江(オリエ津阪)を副委員長にして会社に解雇や供与削減の撤回と待遇改善を要求しました。
すでに人気だった水の江瀧子たちが起こした騒動ということもあって。マスコミは水の江を「花の委員長」と呼び、この労使争議を「桃色争議」と書いて世間の注目を集めました。
左翼女優の原泉子や本物の共産党員まで応援に来るという過熱ぶりです。水の江瀧子は「共産党員の男性がかっこよかった」と回想しており、勢いというかやや熱に浮かれていた部分もあったようです。
松竹は弁士との労働争議で勝っているので今回も勝てると考え、水の江たちの要求は拒否しました。
会社は津阪織江を寝返らせ。水の江たちを解雇すると脅しました。すると水の江たちは神奈川県の湯河原温泉郷に立て籠もり抵抗を続けます。
一時は警察も出動して水の江瀧子が捕まり一晩留置場に入れられましたがすぐに釈放されました。当時の共産党や左翼活動家は日本にソビエト連邦のような社会主義国家を作ろうという人たちなので、警察も警戒したようです。でも水の江たちは関係ないとわかり釈放されました。
大阪でも飛鳥明子たちが高野山に立て籠もる
東京の松竹の動きは大阪にも伝わりました。
水の江たちの行動に影響を受けた大阪の松竹楽劇部員は会社に待遇改善を要求。会社は拒否しました。
すると楽劇部の団員はトップスターの飛鳥明子を争議団長にして舞台を拒否。70人近くが高野山に立て籠もりました。その中には当時18歳だった三笠静子(笠置シヅ子)、美鈴あさ子(アーサー美鈴)、秋月恵美子、芦原千津子たちがいました。
大阪の松竹の争議もマスコミの注目になり。東西で話題になりました。
会社は部員たちが諦めるのを待ちましたが、彼女たちは諦めません。やがて松竹のイメージはダウン。松竹は水の江たちなしで公演を続けましたが客は入りません。特に関西では歌劇を見たい人たちは宝塚歌劇団に集まるようになり。松竹の劇場や舞台の収益は悪化します。
7月。ついに会社は折れて劇団員の要求を認めました。解雇や給与削減は撤回され、待遇改善も行われることになりました。
桃色争議の影響
しかし水の江瀧子たちの要求は通ったともの。
水の江瀧子は謹慎。飛鳥明子は責任をとって退団することになりました。
その後。松竹歌劇部は松竹本社の直轄になり名前を「松竹少女歌劇団(SSD)」と改名。
大阪の松竹楽劇部は「大阪松竹少女歌劇団(OSSD)」と改名、後に「大阪松竹歌劇団(OSD)」となります。
しかしイメージダウンした松竹はしばらく人気が低迷しました。大阪では飛鳥明子たち主要な劇団員が退団してしまったため。劇団運営も苦しくなります。
そんなOSSKを支えたのが笠置シヅ子、アーサー美鈴、柏ハルエ、秋月恵美子、芦原千津子たち新しいスターたちでした。
会社にとっては大きなダメージでしたが。若手劇団員にとっては飛躍のチャンスにもなったのでした。
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