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ブギウギ:村山トミのモデルは吉本せい

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村山トミは NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の登場人物。

関西の興行会社・村山興行の女社長。

演じるのは小雪 さん。

村山トミのモデルは吉本興業の創業者・吉本せいです。

ドラマ「ブギウギ」の村山トミとモデルになった吉本せいを紹介します。

目次

ドラマ「ブギウギ」の村山トミとは

名前:村山トミ
演:小雪

日本有数の興行会社、大阪の村山興業の社長。女手一つで村山興業を日本を代表する興行会社に育てました。

村山愛助はトミの一人息子です。

愛助が福来スズ子と恋仲になったのを知り激怒するのですが。

 

演じるのは小雪さん

村山トミを演じるのはモデルで女優の小雪さん。

神奈川県 出身。1976年生まれ。

雑誌「non-no」のモデルとしてデビュー。
モデル業を続けるとともにTVドラマ「恋はあせらず」で女優デビュー。その後もドラマや映画に出演しています。

夫は俳優の松山ケンイチ。

主な出演作は
映画
「ラストサムライ」
「嗤う伊右衛門」
「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズなど。

ドラマ
「きみはペット」
「末っ子長男姉三人」
「僕と彼女と彼女の生きる道」など。

 

モデルは 吉本せい

村山トミのモデルは吉本興業の創業者・吉本せいです。

明治22年12月5日(1889年)。せいは林豊次郎の三女として生まれました。

せいの出世地は大阪なのか兵庫なのかはっきりしませんが。せいが物心ついたときには父・林豊次郎は大阪市の天神橋筋からほど近い場所で米穀店を営んでいたようです。せいは家の仕事を手伝い商いの仕方を覚えました。

せいは尋常小学校を卒業すると、大阪の大物米穀商の島徳蔵の店に奉公に出されました。頭のいいせいは奉公先の主人からも可愛がられたようです。

明治40年(1907年)。18歳のとき、女中奉公を終えたせいは結婚。相手は大阪の荒物問屋・箸吉の跡取り息子。吉本泰三です。

ところが泰三は大の遊び人。落語、芝居見物が大好きでした。商家の若旦那が遊び歩くのはよくあることですが。家業をほったらかしにして遊び歩いていました。姑の嫁いびりもひどく女中時代よりも厳しい重労働をさせられました。

明治40年(1907年)の恐慌で店は倒産寸前にまで追い込まれ。
明治42年(1909年)には市電を通すため店は立ち退きを命じられ店は廃業しました。その間、夫はチャンバラ劇団を作って地方に行ってしまいます。

せいは天満の実家に戻り夫の帰りを待ちその間に長女を出産しました。

寄席を経営

実家にもどって3年。明治42年(1912年)夫の泰三が寄席を経営すると言い出しました。せいは夫の夢をかなえるため実家を説得して資金を調達。

明治42年(1912年)。大阪天満宮からつながる商店街に自分たちの寄席「第二文芸館」を持つことが出来ました。経済的に余裕のない吉本夫妻は一流落語家は呼べません。当時の主流だった落語ではなくものまねや曲芸など色物の演目が中心でした。木戸銭も安くして。でもこれが人気になり、資金的な余裕もできました。そこで2年後には大阪の寄席を次々と買収。5軒の寄席を手に入れ業界の話題を集めました。

その後、一流の寄席・旧金沢亭を買収。憧れの場所だったこの寄席に「南地花月」と名付けました。吉本夫妻が持つ他の寄席も「〇〇花月」と名前を変えました。

その後も人気落語家・桂春団治をヘッドハンティング。名門の寄せ「紅梅邸」を買収。他の大阪の寄席も次々と買収。開業から10年あまりで大阪の演芸界を制覇しました。

大正12年(1923年)。関東大震災。せいは弟の正之助に支援物資を持たせて東京に派遣。被災した人々を助けました。吉本の活動は東京の落語家の心を掴み、東京で仕事場を失った落語家が吉本の劇場に出るようになりました。

ところが大正13年(1924年)。夫の泰三が死亡。

萬歳王国吉本

せいは6人の子供と30もある寄席を守らなくてはいけません。借金もあります。せいは弟の正之助とともに新しい経営方針を打ち出しました。落語から当時注目を集めていた萬歳を中心に編成、花月乙女舞踊団を結成、雑誌「笑売往来」を発行するなど新しいことに挑戦します。

萬歳は大当たり。吉本の人気はますます高まりました。せいは東京進出を計画、弟の弘高に任せました。

その一方で、日本赤十字社や団体に寄付。社会貢献も進めました。

昭和3年(1928年)にはそれまでの功績が認められ、紺綬褒章を受賞しました。

昭和13年(1938年)には通天閣を買収。大阪の人々を驚かせ「女今太閤」と呼ばれました。

しかし昭和18年(1943年)に通天閣は火事で消失。再建を諦め、解体した鉄骨は大阪府に寄付しました。

昭和20年(1945年)の大阪大空襲で吉本の本社、寄席、映画館の多くが消失。焼け残った劇場ではただ同然の入場料で公演を行い、戦争で苦しむ人々に憩いの場を提供しました。

終戦後の9月には大阪花月劇場で公演を再開。

しかし戦後、体調を崩したせいはあまり人前に出なくなりました。

一人息子の吉本頴右と笠置シヅ子

吉本せいと泰三には何人かの子供がいましたが長男は幼くして死亡。次男の頴右(えいすけ)を溺愛し、跡継ぎとして期待していました。頴右は東京の早稲田に通わせていました。

頴右は歌手の笠置シヅ子の大ファンです。やがて頴右は笠置シヅ子と交際するようになり、結婚の約束をするまでになりました。

ところがせいは激怒して二人の結婚を認めませんでした。せいとしては吉本を支える一人息子が9歳も年上の芸能人と結婚するのは認められません。

笠置シヅ子が妊娠してもせいは二人の結婚を認めませんでしたが、せいも徐々に軟化。やがて二人の仲を認めるようになりました。

ところがもともと病気がちだった頴右が入院。昭和22年(1947年)には吉本頴右は肺病のため24歳の若さで死亡してしまいます。

その年の5月。シヅ子は娘のヱイ子を出産しました。

すっかり気落ちしたせいは寝込むようになりました。

昭和22年(1947年)9月。笠置シヅ子がヱイ子を抱いて西宮の自宅で病気療養中のせいのもとを訪れました。

せいは最初は二人の結婚に反対していましたが、孫ができると情も移ります。孫のために縫った服を着せ。夫を失ったシヅ子をいたわりました。

せいはヱイ子を吉本家で引き取ってもいいと考えていましたが、笠置シヅ子は自分で育てることを選びました。

最期

その後もせいは病気療養を続けましたが。病状は回復しませんでした。

昭和25年(1950年)3月14日。肺結核で死去。享年60。

 

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