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虎に翼:佐田優三のモデル 和田芳夫 とは?

虎に翼

佐田優三(さだ ゆうぞう)は NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」の登場人物。

ヒロイン・猪爪寅子の家で書生をしながら弁護士を目指す青年。

演じるのは仲野太賀さん。

佐田優三のモデルになったのは 和田芳夫(わだ よしお)。

佐田優三は寅子にとってもかけがえのない人物になると思われますが。

ドラマ「虎に翼」の 佐田優三とモデルになった和田芳夫を紹介します。

目次

ドラマ「虎に翼」の佐田優三とは

佐田優三(さだ ゆうぞう)
演:仲野太賀

猪爪家に下宿する書生。

気弱で優しい正確。緊張するとすぐお腹を壊してしまいます。頼りなさそうですが、芯が通っている青年です。

両親を亡くし、弁護士だった父に憧れ明律大学に通い弁護士を目指します。ところが高等試験(司法試験)には何度も落第。

昼は直道の銀行で働き、夜は明律大学で勉強しています。何度か司法試験を受験しますが落第。弁護士になるのを諦めて直言の経営する工場に就職します。

猪爪寅子が弁護士になった後。お互いに社会の信用を得るための手段として結婚します。

優三は寅子のことが好きでした。でもなかなか言い出せなくて、寅子が結婚相手を探していると寅子の父から聞いて結婚しようと思うようになりました。

優三と寅子の間には娘・優未(ゆみ)が誕生。

しかし太平洋戦争の末期に徴兵されてしまい。戦死してしまいます。

 

佐田優三のモデル 和田芳夫(わだ よしお)とは

佐田優三のモデルになったのは三淵嘉子の夫・和田芳夫(わだ よしお)です。

嘉子(当時は 武藤嘉子)の父・武藤貞雄は同郷の香川県丸亀から上京してきた学生を書生として住処を提供していました。和田芳夫も武藤家で暮らしていた書生のひとりです。

芳夫の父は嘉子の父・武藤貞雄の親友の兄弟。武藤貞雄は同郷・香川丸亀の親友の甥の面倒をみていたわけです。

芳夫は同じ頃に武藤家にいた書生の中でも一番大人しくて優しい人。別な言い方をすれば目立たないタイプでした。

芳夫は貞雄と同じ丸亀中学を卒業後。上京して働きながら明治大学専門部の夜間部で勉強していました。

大学を卒業後は東洋モスリン(東洋紡織工業に社名変更。昭和16年に鐘ヶ淵紡績に吸収合併)という紡績会社に就職。武藤家から独立します。

独立後は武藤家の人々と会う機会は減りましたが、時々は遊びに来ていました。

嘉子と結婚

昭和15年(1945年)。嘉子が弁護士登録。

ところが当時は女性が法律を学ぶことも白い目で見られていた時代。嘉子の両親は弁護士になった嘉子が結婚できるか心配していました。嘉子はすでに26歳。当時としては行き送れと言われても仕方ありません。

嘉子の両親は何度かお見合いをさせましたが、嘉子の気に入る人はいませんでした。

心配した嘉子の父・貞雄は「好きな人がいるのかい?」と聞きました。すると嘉子は「和田さんがいい」と答えました。

貞雄と妻のノブは驚きました。和田芳夫は一時期武藤家で書生をしていましたが、大人しい芳夫は書生の中でも目立たなかったからです。それまで二人は付き合ったことはありません。

さっそく貞雄は芳夫の所に行くと「娘があなたのことを気に入ってる。どうだ?」と頼みました。芳夫も気があったのか、二人は交際を初めました。

昭和16年(1941年)11月。和田芳夫と武藤嘉子は結婚。嘉子は「和田嘉子」になりました。

付き合い始めて1年あまりで結婚ですから、トントン拍子に話が進んだように見えます。でも嘉子としては芳夫の方からなかなか結婚しようと言ってくれないのでじれったい思いだったようです。

芳夫は大人しくてまじめですが、言いたいことははっきり言うタイプだといいます。でも結婚のことはそう簡単には決められなかったのかも知れません。

ところが二人が結婚してすぐ。12月には太平洋戦争が始まってしまいます。

結婚生活・芳武誕生

芳夫と嘉子は結婚すると池袋に家を借りて暮らしました。そこからそれぞれの職場に向かいました。

昭和18年(1943年)1月。長男・芳武が誕生しました。

それからは麻布にある武藤家に引っ越し。嘉子の両親といっしょに暮らします。

昭和19年(1944年)。芳夫に召集令状が来ました。
でもこのときは検査で結核の骨膜炎がみつかり兵隊には行かずにすみました。

芳夫の最期

昭和20年(1945年)のはじめ。また召集令状が来ました。このときは身体が弱いことを隠すようにして徴兵に応じました。根が真面目な芳夫は病気を理由に断ることはできなかったようです。

芳夫は入隊すると中国にわたりました。ところが病気が再発、入院しました。上海の病院で終戦を迎えましたがすぐには帰れません。

昭和21年(1946年)。芳夫は他の病人と一緒に船で帰国することになりました。船に乗ったときには他の病人の世話をするほど元気だったと言います。ところが無理をしすぎたのでしょうか、病気が悪化。帰国して長崎の陸軍病院に入院してしまいます。

ところが最初は本籍地の香川に連絡が行ってしまい、すぐには嘉子のもとには届きませんでした。東京にいる嘉子のもとに連絡が届いたときには芳夫は危篤状態。

昭和21年(1946年)5月23日。芳夫は家族に看取られることなく死亡しました。

嘉子と息子の芳武が病院に到着したのはその後でした。

 

佐田優三のモデルが 和田芳夫なのはほぼ間違いないと思われます。優三も若くして死んでしまいました。でも死亡後の連絡の行き違いはドラマでは脚色されています。ドラマ序盤の主要キャラのはずですがずいぶんと扱いが軽いようです。

 

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