桂場等一郎(かつらば とういちろう)は NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」の登場人物。
弁護士を目指す寅子の前に立ちふさがる大きな壁として登場。個性の強い若手の有能な裁判官です。
演じるのは松山ケンイチさん。
ドラマ「虎に翼」の 桂場等一郎とモデルになった人物を紹介します。
ドラマ「虎に翼」の桂場等一郎とは
桂場等一郎(かつらば とういちろう)
演:松山ケンイチ
司法の独立を重んじる気鋭の裁判官。寅子に対して、女性が法律を学ぶことに疑問を呈する。「法の世界」の手ごわい先輩ですが実は甘党。
第1話では、裁判官になろうと裁判所の人事課を訪れた寅子と出会いました。
後に共亜事件が起きて寅子の父・直言が贈収賄の容疑で逮捕されます。その裁判で判決文を書いたのが桂場等一郎です。
桂場等一郎のモデル・石田 和外(いしだ かずと)とは
石田 和外(いしだ かずと)
桂場等一郎のモデルは裁判官の石田 和外と思われます。
石田 和外とは
生年:1903年5月20日。
没年:1979年。
福井県福井市生まれ。
父は福井県庁職員。
中学在学中に父が46歳で他界。一家で上京して錦城中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業しました。卒業後は司法省に入り。
刑事裁判官の裁判官になりました。
帝人事件を担当
1934年。鈴木商店が倒産。鈴木商店が持っていた帝人(帝国人造絹絲株式会社)の株が担保として台湾銀行に移りました。帝人の株は人気があったので様々な人が買おうとしましたがうまくいかず。元鈴木商店の金子直吉が鳩山一郎や番町会というグループに働きかけて、帝人株11万株の買い戻しに成功しました。この後、帝人が増資を決めたので株価が大きく値上がります。
すると金子直吉や財界人の不正があったのではないかと時事新報が報道。それをきっかけに大汚職事件として世間の話題になりました。
斎藤内閣が総辞職するという大騒動になりました。
検察は帝人社長や台湾銀行頭取、番町会、大蔵省の大物を次々と逮捕しました。逮捕された人たちは200日も勾留されましたたが。捜査をしても汚職の証拠がみつからず、ただ法的に問題のない商取引があったことだけがわかりました。
1935年(昭和10年)。裁判が行われました。裁判長は藤井五一郎。石田和外は左陪審としてこの裁判に関わりました。
被告は全員、罪を否認。裁判所も被告の無罪を認めました。
石田和外はこの裁判で判決文をまとめあげ「水中に月影を掬するが如し」と言って全員を無罪にしました。
石田和外はこの判決文で水面に写った月を笏で救うようなものだと例え話を出して事件は検察のでっちあげだと批判。石田和外はこの裁判で注目されました。
この事件を「帝人事件」といい。
内閣を潰すための枢密院副議長の平沼騏一郎が仕組んだものといわれます。
1943年。前々年の1941年に起きた平沼騏一郎襲撃事件の裁判で裁判長を担当。中野正剛衆議院議員を商人に呼んだ時、検察が公開中止を求めたのに対して公開を貫きました。
三淵嘉子との出会い
1947年。司法省人事課長長になりました。
この年。三淵嘉子が裁判官になりたいと採用願いを持ってきました。でもまだ新憲法は施行前。困った石田は東京控訴院長の板野千里に相談。板野は三淵嘉子裁判官ではなく司法省民事部の委託として採用しました。
この出会いが「虎と翼」1話冒頭のモチーフ。
1948年。最高裁判所事務局(最高裁判所事務総局)に異動。人事課長・人事局長・事務次長を務めました。
その後は東京地方裁判所長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官を務めました。
1963年。最高裁判所判事になりました。
最高裁判所長官として
1969年。最高裁判所長官になりました。
このとき「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」とコメントを発表。世の中が変わっても自分は中立でありたいと意思表示をしました。
その後、様々な事件を担当。
その決定には後の判決にも影響を与えるようなものもあります。
1973年。定年退職。
1979年。死去。享年76歳。
強い意志を持ち、常に公正な裁判をこころがけ。日本の裁判史上でも有名な裁判官のひとりです。石田和外の判決は後の時代の判決にも影響を与えています。
政治的な中立を貫こうとして批判を浴びる
石田和外は司法が政治家の影響を受けていはいけない。裁判官は偏った思想を持ってはいけない。中立であるべきだと考えていました。
そのため、ときには裁判所から偏った思想の人たちを異動させるなど強行な人事を行いました。それで反発を受けたこともあります。
でも石田和外は周囲の批判にも耐えました。
石田和外らの行った人事により、裁判官たちの萎縮や分断がおきた時期もありました。
そこまでしたのには理由があります。
青年運動や労働運動の裏には左翼勢力がいることがあります。学生・青年運動家を指導していたり、直接指導を受けていなくても影響を受けた人はいます。
表向きは良いことを言ってるようでも裏には政治勢力の影響がありました。
石田和外たちはそうした青年運動の裏にいる政治勢力の影響を危険だと考えていたのです。
でも中立を保ちたいという石田和外の考えは世間にはなかなか認めてもらえません。
与党や保守的な勢力からは「学生運動に甘すぎる」と非難され。
急進的な左翼勢力からも独裁的と批判を受けます。
マスコミや知識人には左翼がかった人が多いですから、マスコミ・有識者の間での石田和外の評判はあまりよくありません。
「虎に翼」の9月の放送では桂場等一郎の人事に批判が集まり。寅子たちと桂場等一郎が対立する場面が描かれます。
これは石田和外の思惑と世間の見方のズレがドラマの演出に影響しているようです。
中立を保つのは難しいものです。
少年法引き下げには反対
強行な人事を行い批判を受ける石田和外ですが、少年法の引き下げには反対していました。
その理由は「法務省や検察が家庭裁判所の業務に介入、権限を奪おうとしている」からでした。
あくまでも「裁判所の中立や独立」を貫こうとしたのです。
石田和外の考えは三淵嘉子たちが反対していている理由とは違うかもしれません。
でも少年法引き下げの件に限れば、最高裁判所の有力者と意見が同じなのは三淵嘉子にとっても悪いことではありませんでした。
桂場等一郎と石田和外の共通点
石田和外が桂場等一郎のモデルの思える理由はいくつかあります。
・帝人事件を担当
ドラマの中で共亜事件の判決文を書いたのが桂場等一郎です。共亜事件のモデルになったのは帝人事件。その事件で判決文を書いたのが石田和外です。
・三淵嘉子と会っている。
三淵嘉子が裁判官になりたいと採用願いを出した時受け取って処理したのが石田和外でした。
・剣道家
桂場等一郎を演じる松山ケンイチさんが「モデルになった方は裁判官で剣道家」とコメントしていました。 石田 和外は剣道家で第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家です。
などです。
ドラマが進めば他にも共通点が見つかるかも知れません。
もうひとりのモデル? 草野豹一郎
もうひとりモデルと思える人がいます。
それが司法官から弁護士になった草野豹一郎です。
生年:1886年
没年:1951年
1886年。岩手県花巻市に生まれました。
父は代議士。
東京帝国大学法科大学を卒業後。
司法官になり横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京高等裁判所判事を務めました。
後に弁護士に転身。様々な事件を担当、主に冤罪と思える事件を多く手掛け、無罪判決を勝ち取りました。
日本弁護士連合会の会長も務め、日本の弁護士制度の発展に貢献しました。日本を代表する弁護士と言われています。
1951年に亡くなりました。享年65歳。
草野豹一郎がモデルの理由
・名前が似ている。
桂場等一郎と草野豹一郎。
名字が植物+場所。名前の発音が「とういちろう」と「ひょういちろう」。
似ていると思いませんか?
・弁護士になろうとする三淵嘉子を教えた。
弁護士法が改正されるのを見越して明治大学は専門部女子部を開設。このとき草野豹一郎は刑事訴訟法の講師として女子学生を教えました。学生の中には三淵嘉子もいました。
桂場等一郎=草野豹一郎+石田和外?
ドラマ序盤の寅子が弁護士になるまでの桂場等一郎は草野豹一郎。
寅子が裁判官を目指して以降の桂場等一郎は石田和外の経歴によく似ています。
草野豹一郎と石田和外を足したような人物が桂場等一郎かもしれません。
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