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虎に翼: 猪爪 寅子のモデル 三淵嘉子は日本の女性初の女性弁護士・裁判所長

虎に翼

 猪爪 寅子(いのつめ ともこ)は NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」のヒロインです。

演じるのは伊藤沙莉さん。

 猪爪 寅子のモデルは日本初の女性弁護士で裁判官、日本初の女性裁判所長になった三淵嘉子(みつぶち よしこ)です。

ドラマ「虎に翼」の 猪爪 寅子とモデルになった三淵嘉子について紹介します。

 

目次

ドラマ「虎に翼」の猪爪 寅子とは

名前: 猪爪 寅子(いのつめ ともこ)
演:伊藤沙莉(いとう さいり

大正3年(1914)生まれ。
五黄の寅年に生まれたので 寅子(ともこ)と名付けられました。

名前は「ともこ」ですがあだ名は「とらこ」。

世間知らずで自身家なところもありますが、しっかりものの母と恐妻家の父に育てられ女学校を卒業。

母はお見合いを勧めますが、それを断って日本で唯一女性に法律を教える学校に入学しました。そこには同じ志をもつ仲間たちが集まっていました。学校を卒業した後、大学に進学。そこには男子学生との競争もまっていました。

やがて学校を卒業して日本初の女性弁護士のひとりになります。やがて弁護士から裁判官へ。

法律の世界に女性がまだいなかった時代。寅子はそんな男社会に飛び込んで新しい道を切り開いていったのでした。

三淵嘉子とは

猪爪寅子のモデルになったのは三淵嘉子。
日本初の女性弁護士で裁判官、裁判所長になった人です。

名前:武藤嘉子(むとうよしこ)→三淵嘉子(みつぶち よしこ)

武藤嘉子は大正3年(1914年)父の赴任先のシンガポールで生まれました。
シンガポールは漢字で「新嘉坡」と書くのでそこから嘉子と名付けられました。

父は銀行員の武藤貞雄。東大法学部を卒業したエリート

母は武藤ノブ。

大正5年(1916年)父がニューヨーク支店に異動。嘉子は生まれたばかりの弟・一郎とともに母・ノブの実家がある香川県丸亀市に引っ越ししました。

大正9年(1920年)父の単身赴任が終わり日本に戻ってきました。嘉子たち家族は東京の渋谷区に引っ越ししました。

小学校のとき関東大震災がありましたが、嘉子の家族は無事でした。

昭和2年(1927年)。倍率20倍の難関を突破して東京女子高等師範学校の付属高等女学校(お茶の水女子大学附属高校)に入学。

法律の学校に入学

母は女学校卒業後結婚してほしいと思っていましたが、父は職に就くのを勧めていました。父は嘉子に法律の勉強を勧めました。嘉子自身も法律に興味をもち学ぼうという意識が強かったようです。

日本で女性に弁護士の資格が与えられるのは昭和11年からですが、すでに法改正に向けての動きは始まっていました。明治大学はいちはやく法改正の動きをとらえ。女性のための法律を学ぶ学校を作りました。

嘉子は学校の存在を知ると入学を決意。父の後押しもあり、母が法事で実家に帰っている間に入学手続きを済ませました。ところが嘉子の法律学校入学を知ると泣いて反対。嘉子と父は時間をかけて説得。母もようやく納得してくれました。

昭和7年(1932年)。嘉子は女学校卒業後、明治大学専門部女子部の法科に入学しました。

当時は女性は学校を出ると結婚して家に入るのが当たり前。女性が法律を勉強していると変人あつかいされる時代でした。

このころには将来、法律が改正されて女性も弁護士になれる時代が来ることはわかっていましたから嘉子と学校の仲間たちは法改正されたときに弁護士になれるように意欲的に勉強しました。

嘉子は専門学校を卒業すると明治大学に入学。成績優秀な嘉子は男子学生からも一目置かれる存在になりました。

弁護士になる

昭和11年(1936年)。法律が改正され女性にも弁護士の資格が与えられることになりました。しかし1回目、2回目の試験では女性の合格者はいませんでした。

弁護士になるのは司法試験と口述試験に合格後、1年半の修習が必要でした。

昭和13年(1937)。嘉子は明治大学を男女合わせて首席で卒業。

そしていよいよ司法科試験に挑戦して見事合格、続く口述試験にも合格。田中正子、久米愛も合格。

弁護士補になって1年半の研修を行いました。そのかたわら明治大学法学部で法律の講師も務めました。しかし当時の弁護士の世界は男だらけ、何かと気をつかう気苦労の多い職場だったようです。

昭和15年(1940)。研修期間を終えた嘉子は弁護士会に登録。正式に弁護士になりました。

和田芳夫と結婚

昭和16年(1941)。嘉子は和田芳夫と結婚しました。
芳夫は嘉子の家で書生をしていました。芳夫は嘉子の父・貞雄が丸亀にいたときの親友のいとこで。貞雄が上京してきた芳夫の面倒をみていました。

しかし戦争が始まり仕事は激減。弁護士も開店休業の状態でした。

昭和18年(1943)。長男・芳武が誕生。

ところが昭和19年(1944年)。招集を受けた弟・一郎が沖縄に向かう途中で戦死。

夫の芳夫にも召集令状が来ましたが過去に骨膜炎を患っていたので一度は除外になりましたが。
昭和20年(1945年)。再び招集され中国にわたり現地で骨膜炎を患い入院。嘉子は夫を見送った後、福島に疎開しました。

そして終戦をむかえます。

相次ぐ不幸

昭和21年(1946年)。芳夫は帰国しますが病気が悪化。長崎の病院で死亡しました。嘉子は芳夫の死に目には会えませんでした。

昭和22年(1947年)1月。苦労が重なり母ノブが死亡。
すると10月には父・貞雄も肝硬変で死亡しました。

嘉子はわずか3年の間に弟・夫・母・父を亡くしてしまいます。

家族の死後。子供や弟たちを養うためにも嘉子は明治大学法学部で民法の講師を務めました。

裁判官になるための苦労

でも経済的には苦しい生活でした。そこで嘉子は裁判官になろうと決心します。でも当時の法律では裁判官は男しか慣れません。でも戦後、憲法が改正され男女平等が明記されます。

昭和22年(1947年)3月。嘉子は司法省に乗り込み裁判官採用願いを出しました。

でも新憲法は交付されていましたがまだ施行前。届けを受け取った石田和外は迷った末、嘉子を司法省民事部の委託として採用しました。

嘉子は民法改正作業を手伝いました。裁判官になりたかったのに不満でしたが、ここで新しい知識も得ることができ、嘉子にとってはよい経験になったようです。新しい民法では戦前よりも格段に女性の地位が向上していました。嘉子は嬉しく思いました。その反面「男女平等になり女性に権利が認められれば責任も生まれる。世間の女性がそれに耐えられるだろうか」と不安に思う気持ちもあったようです。

嘉子は「局付」というポストについて民事局や家庭局で民事訴訟や司法行政の事務に関わりました。そうして裁判官の仕事がどういうものか学んでいきました。

裁判官になる

昭和24年(1949年)4月。石渡満子が日本初の女性裁判官になりました。

その4ヶ月後。嘉子も裁判官になりました。

裁判長の近藤莞爾は「あなたが女性だからといって特別扱いはしませんよ」といい、他の裁判官と同じように扱いました。嘉子にとっても特別扱いは女性裁判官の成長を妨げると思っていたのでありがたいことでした。

裁判官は凶悪事件も扱います。女性に務まるのかという意見や、そもそも女性が裁判官を務められるのかという偏見もありました。でも嘉子は実績を積み重ね、裁判官としての信頼を得ました。

アメリカでの勉強

昭和24年(1949年)。嘉子の仕事が評価され、家庭裁判所を学ぶためアメリカに派遣されることになりました。息子の芳武はまだ7歳。不安はありましたが弟夫婦に芳武を任せ、嘉子はアメリカに旅立ちました。

嘉子はアメリカで家庭裁判所について学び多くのことを知りました。そしてアメリカでは女性裁判官が活躍しているのを知って驚きます。

転勤

アメリカから戻り、

昭和27年(1952年)。嘉子は判事補から判事になりました。
裁判官は3年で転勤します。人材が偏るのを防ぐためです。

嘉子は名古屋に転勤になりました。名古屋で3年働いた後、東京に戻りました。

三淵幹太郎と再婚

昭和31年(1956)6月。嘉子は三淵幹太郎と再婚。

三淵幹太郎は最高裁判所の初代長官・三淵忠彦の息子。仕事柄、嘉子は忠彦の仕事を手伝ったことがありました。忠彦は嘉子がアメリカに行っている間に亡くなりましたが。帰国後、三淵家を弔問におとずれ、幹太郎と知り合ったと思われます。幹太郎はには子が3人いましたが妻には先立たれていました。

嘉子と幹太郎がどのような出会い方をして付き合ったのかは不明ですが、二人は結婚しました。

裁判所長になる

当時、女性裁判官に凶悪事件は任せられないという偏見や、逆に任せるのは気の毒だという過剰な気遣いがあり。その一方で女性裁判官には家庭裁判所が向いているという意見もありました。嘉子はそんな風潮に反発、女性裁判官の進路が家庭裁判所に偏ってしまうのを心配していました。

また家庭裁判所は単に事件や訴訟を裁くものではありません。少年少女の更生を扱い心の問題にも踏み込まなければいけないと考え。人間的にもっと成長してからと思っていました。そこで嘉子は「50前後までは家庭裁判所の裁判官にはならない」と裁判所にも伝えていました。

昭和37(1962)年。48歳になった嘉子は東京家庭裁判所の判事になりました。家庭の問題はもちろん、多くの少年少女の更生にたちあいました。

昭和47年(1972年)。嘉子は新潟家庭裁判所長になりました。
女性初の裁判所長の誕生です。

新潟のあと、浦和と横浜の家庭裁判所長を務めました。

民法改正

このころ少年法の対象年齢引き下げが問題になっていました。事件が低年齢化する傾向にあり。法務省は少年法の対象年齢を18歳未満に引き下げ、刑事事件では19歳と18歳と成年と同じように扱おうとしていました。

嘉子は家庭裁判所側の代表として審議会に出席。しかし最初から結論が決まっているかのような審議会のありかたに家庭裁判所や弁護士側から反発の意見が出ました。5年たってもまとまらず、法務省が最高裁が水面下で話し合ってまとめようとしましたが、これには家庭裁判所が最高裁の裏切りだと反発。結局、少年法の年齢引き下げは見送られました。

嘉子たち家庭裁判所側の勝利ですが、法務省と裁判所には不信感が残り、裁判所内でも家庭裁判所への不満がありました。

後に令和3年(2021年)。成人年齢が18歳に引き下げられ。少年法の年齢も引き下げられました。

引退後も忙しい日々が続く

昭和54年(1979年)。65歳の嘉子は裁判所を定年退職。女の涙を嫌う嘉子もこのときは目に涙が溢れたといいます。

裁判官を退職後、弁護士登録をしましたが。嘉子のもとには、労働省・男女平等問題会議の座長、日本婦人法律家協会の会長、東京家庭裁判所の調停委員会、参与員、東京少年友の会の常任理事、東京度人事委員会の医院。労働省・夫人問題審議会の委員など。様々な役職の就任要請がきました。

嘉子はそれらの仕事を引き受け精力的にこなしました。引退しても忙しかったようです。そんな中でも夫の幹太郎との時間は大切にしました。

昭和58年(1983年)。嘉子は胸骨が痛むようになり入院。転移性の骨ガンでした。

昭和59年(1984年)5月28日。嘉子は息を引き取りました。享年69歳。

弱者の味方

女性への歴然とした差別が存在して、仕事や生き方にも様々な制限があった時代。日本初の女性弁護士の一人として法律の世界に飛び込み。裁判官となり、家庭裁判所の立ち上げにも関わり、日本初の女性裁判所長になりました。

嘉子は「女性の味方」というステレオタイプな紹介のされ方を嫌い「弱者の味方」だと言っていました。彼女自身、女性だからとい甘えを捨て。男女平等を目指しました。そのため女性からも恨まれたことがあります。そこまでして強い信念をもち、女性が活躍できる社会を切り開いていったのです。

 

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