村山愛助は NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の登場人物。
演じるのは水上恒司 さん。
村山愛助はやがてヒロイン・福来スズ子の最愛の人になるようです。
ということは村山愛助のモデルは笠置シズ子最愛の人・吉本頴右(よしもと えいすけ)ですよね。
ドラマ「ブギウギ」の村山愛助とモデルになった吉本頴右を紹介します。
ドラマ「ブギウギ」の村山愛助とは
名前:村山愛助
演:水上恒司
大阪にある村山興業の御曹司。村山興業は漫才や落語、演劇をてがける日本でもトップクラスの芸能会社。愛助の母は村山興業を起業した村山トミ。
愛助は大学生で福来スズ子の大ファン。スズ子の魅力を熱く語ります。やがて二人は惹かれ合っていきますが。様々な逆境が待ち受けています。スズ子が生涯で本気で愛した唯一の男性です。
演じるのは水上恒司さん
村山愛助を演じるのは俳優の水上恒司(みずかみ こうし)さん。
福岡県福岡市出身。1999年生まれ。
出演作は
TVドラマ
「中学聖日記」「ウチの娘は、彼氏が出来ない!!」
映画
「死刑にいたる病」「望み」「ドクター・デスの遺産 -BLACK FILE-」
連続テレビ小説
大河ドラマ
「青天を衝け」尾高平九郎
など。
モデルは 吉本頴右(よしもと えいすけ)
漫才王国吉本興行の御曹司
村山愛助のモデルは吉本興業の吉本頴右(よしもと えいすけ)です。
大正12年(1923年)10月26日生まれ。
最初は泰典ですが後に頴右に改名。
頴右の漢字が難しいので「頴右」と書かれることがよくあったそうです。笠置シズ子の自叙伝「歌う自画像」にも「頴右」と書かれています。
吉本頴右の母は吉本興業の創業者で社長の吉本せい。
頴右(えいすけ)は吉本せいと吉本吉兵衛の次男。
吉本興業は大阪にある芸能会社。漫才や落語など芸能で日本を代表する会社。東京にも拠点をもち積極的に活動していました。
せいの長男で頴右の兄・泰之助は頴右が生まれる前に志望していたので吉本家にとっては頴右が唯一の跡取り息子です。
吉本頴右(よしもとえいすけ)と笠置シズ子との出会い
シズ子と頴右が出会ったのは太平洋戦争中の昭和18年(1943年)6月。
当時の頴右はまだ早稲田大学の学生。
シズ子はスヰングの女王と呼ばれ既にスターになっていましたが、戦時中はジャズが敵性音楽とよばれ制限を受けていたので主に地方巡業や工場の慰問活動をしていました。
笠置シズ子が名古屋に興行をおこなったとき。楽屋でみかけたのが吉本頴右でした。そのときの頴右はシズ子に声をかけることができずに去ったそうです。でも背の高い美青年の存在にシズ子は気づいていました。翌日も頴右は現れました。吉本の会計係・一田昇の紹介で「うちのぼんがファンだと言うので会ってくれ」と言われて会ったのが吉本頴右でした。
当時の笠置シズ子は29歳。頴右は20歳でした。
頴右はほぼ10歳年下です。
その後、シズ子は仕事で神戸に移動、頴右も関西に移動する予定になっていました。同じ列車に乗りました。シズ子は頴右が気に入ったらしく、荷物を持ってもらいたいと吉本の関係者を通じて呼び出すと、頴右も同席するつもりだったらしく二人は神戸まで一緒しました。
その後も二人は何度も会いますが、頴右は荷物を持ったり手続きをしたりとシズ子の面倒を見ていました。でもそのときのシズ子は物好きな人だなくらいの気持ちでした。頴右もファンとしてあこれがれの人に接していたようなので特に恋愛感情はなかったようです。
やがて頴右とシズ子はお互いの家に遊びに行き来する仲になりました。吉本興行の跡継ぎと聞かされましたが、歳が9歳も離れていたのでシズ子も気楽に接していました。頴右もシズ子に甘えていました。シズ子は頴右を弟か友達のような存在と思っていたようです。
でも出会って1年半後の昭和19年(1944)年には二人はお互いを恋愛対象として見るようになりました。
このころ戦争は悪化。東京では大劇場は閉鎖。空襲警報が出るようになり、スズ子たちもいつ爆撃をうけるかわからないという緊迫感の中で暮らしていました。そんな中でもスズ子と頴右は人目を忍んで会っていました。どうなるかわからない緊迫したときだからこそよけいに情熱が燃え上がったのかもしれません。
ところが頴右は結核にかかってしまいます。頴右は病気のため徴兵は免れたものの。7月には吐血してしまいます。
短かった同居
ついに昭和20年(1945)年5月に東京が空襲を受けシズ子の家が燃えてしまいました。シズ子は京都公演のため無事でした。同居していた父も非難して無事ですが家財はほとんど燃えてしまいました。市ヶ谷の吉本邸も焼失。父は香川に戻り。シズ子は吉本興業の林常務の勧めで頴右とともに林常務の知人宅で居候することになりました。
頴右とシズ子は終戦までここで一緒に暮らしました。二人が同居したのはこの数カ月間だけです。
大学を辞め吉本で働く
戦争が終わってしばらくした昭和21年(1946)年。頴右は早稲田大学を中退して吉本興業の東京支社で働きました。シズ子は活動に復帰しました。
この年から頴右の勧めでシズ子のマネージャに山本義富がつくようになりました。
頴右は重役候補として部隊のプロデュースを任されました。舞台稽古を徹夜で付き合ったり様々な激務でただでさえ結核にかかっているのにさらに体調は悪化。
シズ子の自叙伝によると。頴右は彼女と結婚するため早く一人前になって親に認めてもらおうと頑張りすぎていたようです。なにしろ頴右の親は一代で吉本興業を立ち上げた女傑の吉本せいです。せいは息子が芸能人と付き合うのを快く思わず、二人の結婚を認めようとはしませんでした。
頴右が大阪に戻る
昭和21年(1946)年春。大阪の吉本本家は頴右を大阪に戻るように希望するようになりました。このころ頴右の母・吉本せいは闘病生活をしていてあまり病状がよくなかったようです。
シズ子は頴右に帰省を勧めました。頴右の病気も悪化していましたし、せいのこともあります。
6月。頴右とシズ子は琵琶湖畔の宿で会った後、頴右は大阪に戻りました。
このときシズ子の妊娠3ヶ月とわかりました。
12月。シズ子は頴右に会いに行きました。このとき山内も間に入り今後のことについて話し会いました。このころ、頴右は療養するかたわらで吉本興行と吉本家、林家(せいの実家)の財産整理にとりかかっていました。3月にそれが終わるのでシズ子との結婚を周囲に話し、子供は生まれたらすぐに籍にいれることでまとまりました。
生まれてくる子供のためにも二人の結婚をせいに認めてもらい。入籍問題を解決しないといけません。
吉本頴右の最期
ところが頴右の病気は悪化、寝込んでしまいました。
3月に頴右が上京する予定が取りやめになり。一時はよくなったかに思えたものの5月には大阪医大に入院。
シズ子も出産を控えていましたが、頴右が重体だと聞くと大阪に行こうとします。しかし周囲の説得でとりやめました。
5月19日。頴右が死亡。25歳の若さでした。
5月20日。シズ子は大阪から戻ってきた山内から頴右の訃報を聞かされその場で泣き出しました。
シズ子の出産は予定日よりも遅れていましたが。周囲の人達は頴右の霊が貴方のお腹に入るために神様が遅らせたのだろうと慰めたと言います。
シズ子は吉本の関係者から頴右が残したという預金通帳を印鑑を受け取りました。
シズ子は頴右が生前に来ていた浴衣を部屋にかけました。それをかけると頴右がいるように感じたと言います。
6月1日。予定日よりも遅れていましたが無事に娘のヱイ子を出産を出産しました。
頴右の死からヱイ子の出産まで10日ほどでした。
吉本頴右の母せいに会う
9月にはシズ子はヱイ子を連れて吉本せいに会いに行きました。
せいは頴右の生前はシズ子との結婚を反対していました。でも頴右に死なれシズ子が孫を抱いてやってくると暖かく迎えました。せいは自分でヱイ子を風呂に入れ自分で縫った着物を着せました。そしてシズ子にいたわりの言葉をかけました。
考えようによっては、吉本せいにとって笠置シズ子は息子の命を縮めたかもしれない女ですが。最愛の人を失い生まれたばかりの子供を抱えた母を責めるほど薄情ではありません。
せい自身も子供を何人もいるのに若くして夫に死なれたのですから。シズ子が若い頃の自分に重なって見えたのではないでしょうか。
頴右との子・ヱイ子を自分で育てる決意をする
吉本せいは今後のシズ子親子を心配して、自分がヱイ子を引き取ってもいいと言いました。また頴右の叔父で吉本興行・東京支社長の林弘高がひきとってもいいと言って来ました。
でもシズ子は自分で育てる決意をします。それは自分が実の母のもとを離され養父母のもとで育てられたことと関係しているようです。この子だけは実の母の自分が育てたい。という強い想いがあったようでした。
娘をかかえシングルマザーになったシズ子はいつまでも泣いていられません。我が子を育てるためにも芸能界復帰を決意。服部良一に自分にふさわしい歌を作って欲しいとお願いしました。
服部良一も苦境を吹き飛ばす歌を作り、再起の場を作ろうと決心しました。
そうして生まれたのが「東京ブギウギ」です。
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