茨田りつ子は NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の登場人物。
演じるのは菊地凛子 さん。
NHKからも発表のあるとおり。茨田りつ子のモデルは歌手の淡谷のり子です。
「別れのブルース」や「雨のブルース」などが大ヒット。戦前・戦後をとおして「ブルースの女王」と呼ばれました。日本で最初のシャンソン歌手とも言われます。
ドラマ「ブギウギ」の茨田りつ子とモデルになった淡谷 のり子を紹介します。
ドラマ「ブギウギ」の茨田りつ子とは
名前:茨田りつ子(いばらだ りつこ)
演:菊地凛子
青森出身の歌手で
りつ子が歌う『別れのブルース』をラジオで聞いた鈴子は、感銘を受け憧れる。やがて二人は生涯の良きライバルとして、時に競い合い、時に支え合いながら芸能の世界を生きていく。
演じるのは菊地凛子さん
神奈川県 出身。1981年生まれ。
出演作は
映画「バベル」「ノルウェイの森」「パシフィック・リム」
連続テレビ小説
「ちゅらさん」
大河ドラマ
「鎌倉殿の十三人」
他に「生理のおじさんとその娘」など。
モデルは 淡谷のり子
茨田りつ子のモデルは歌手の淡谷 のり子(あわや のりこ)。です。
日本初のシャンソン歌手で「ブルースの女王」と呼ばれました。
この記事ではドラマ「ブギウギ」と関係のある部分や笠置シズ子との関わりを中心に紹介します。
1907年(明治40年)8月12日生まれ。
青森県出身。実家は豪商でしたが。十代のころ家が破産。のり子は中学校を中退。母・妹ともに東京に出てきました。
淡谷のり子は「じょっぱり(頑張屋)」で大変な努力家でした。アルバイトをしながら東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通い。1929年(昭和4年)。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科を首席で卒業しました。
その年に行われたオール日本新人演奏会では「10年に一度のソプラノ」と絶賛されます。当初はクラシック歌手を目指していました。
1931年(昭和6年) 日本コロムビアの専属歌手になりました。
古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」がヒット。
1935年(昭和10年)。「ドンニャ・マリキータ」がヒット。日本で最初のシャンソン歌手になりました。ハンガリーの「暗い日曜日」をカバーしました。
別れのブルースが大ヒット・ブルースの女王と呼ばれる
「暗い日曜日」を聞いた服部良一はその歌声に感動して淡谷のり子にブルースを歌わせてみようと思いつきました。
1937年(昭和12年)。服部良一は「別れのブルース」を作曲、淡谷のり子に歌わせようとします。ところが淡谷のり子はこんなに低い音は歌えないと反発、それでも服部良一は「ブルースはソプラノでもアルトでもない魂の声なんだ。マイクにぐっと近づいて無理にでも歌ってもらいたい」と説得。淡谷のり子は一晩中タバコを吸ってわざと喉を潰して「別れのブルース」を収録しました。
ところが「別れのブルース」は最初は売れませんでした。やがて満州で大流行。遅れて長崎、神戸、大阪、横浜と港町で人気が出ました。歌詞にある港町の風景が聞いている人の知ってる港に重なったようです。そして東京でも人気になり「別れのブルース」はレコード売上は100万枚を超える大ヒット曲になります。
淡谷のり子は一気に人気歌手になりました。
翌年「雨のブルース」を発表。こちらも満州の将兵たちに人気になりました。その後「思い出のブルース」を立て続けに服部ブルースを歌い「ブルースの女王」と呼ばれるようになります。
このころ同じ服部良一の指導を受けた笠置シズ子が「スウィングの女王」と呼ばれるようになります。
戦時下の活動
時代は日中戦争に続き太平洋戦争へと戦線が拡大。世間では贅沢が禁止されるようになり。芸能活動にも影響が出るようになります。
淡谷のり子がマニキュアを塗り化粧をして銀座の街を歩いていると、国防婦人会のおばさんたちがやってきて「贅沢は敵です」と注意された事がありました。そのときでものり子は「これは私の戦闘準備なのよ。兵隊さんが鉄カブトをかぶるのと同じように。ゼイタクなどではありません」と突っぱねたこともあります。
やがて軍から声がかかり慰問活動に出掛けましたが、軍歌は歌いませんでした。当時、感傷的なブルースは禁止されていました。でも兵士たちは熱烈にブルースを希望します。兵士たちが別れのブルースを希望してのり子が舞台から降りられなくなると、検閲の将校が席を外すこともあったようです。のり子が「別れのブルース」を歌うと、兵士たちはを惜しみない拍手をして戦いに出ていったといいます。
他にも英米の捕虜がいる場合は英語の歌を歌ったり、恋愛の歌を歌ったりと。禁止されていることも行いました。帰国後は始末書を書かされその厚さは数センチになったといいます。
昭和20年(1945年)。戦争が終わりました。
笠置シズ子のライバルとして
淡谷のり子にとって戦時下での活動は不本意で辛いものだったかもしれません。まだ一流歌手として活動ができました。
戦時中はジャズスィングが禁止され、軍からも声がかからず笠置シズ子は地方での活動を行っていました。そして戦後。ジャズが解禁されると笠置シズ子のブギウギシリーズが大ヒット。一気に大人気歌手になり「ブギの女王」と呼ばれるようになります。
すると世間は「ブルースの女王」淡谷のり子と笠置シズ子を何かと比較するようになりました。
二人はかつて服部良一のもとで歌ったこともあり。後輩で急に人気になったシズ子をライバルとして意識していたようです。
淡谷のり子は好き嫌いをはっきりというタイプ。笠置シズ子の歌には批判的でした。でも笠置シズ子が歌を引退、女優業に専念するとシズ子の縁起を褒めたり。シズ子の娘・ヱイ子には「お母さんに感謝しなさいよ」と言ったりしています。シズ子個人を嫌っているわけではなく。ライバルと認め、目指すものの違いを表現していたのでしょう。
芸能界のご意見番
戦後、淡谷のり子は歌手としても活躍しました。その一方で、テレビ番組の審査員やバラエティーにも出演。辛口コメントを連発。芸能界のご意見番としても人気を集めました。
のり子は大変な努力家で基礎から学んで技術を磨き開けてきただけに。他の歌手にも厳しいコメントを言うことがありました。「今の若手は歌手ではなく「歌屋」に過ぎない。歌手ではなく「カス」」と発言して賛否両論を巻き起こしたこともあります。
晩年まで精力的に活動
淡谷のり子は本業の歌手も精力的に活動。85歳になっても新曲を発表しました。
しかし、平成5年(1993年)に脳こうそくで倒れました。復帰はしたものの、録音した自分の歌を聞きこれではとても人様に聞かせることはできないと引退を決意したと言われ。人前で歌うことはなくなりました。
平成11年(1999年)。老衰のため自宅で死去。享年92。
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