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ブギウギ:スズ子が移籍した梅丸楽劇団のモデル 松竹楽劇団とは?

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HNK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」11月5日放送の第6週からは舞台が東京に移ります。

福来スズ子は大阪のUSK梅丸歌劇団から東京のUGD梅丸楽劇団に移籍。新たな人生をスタートしました。

梅丸楽劇団のモデルになったのが笠置シズ子が東京時代に在籍した松竹楽劇団。

松竹楽劇団とはどのようなものなのか?大阪にあった少女歌劇とはどう違うのか紹介します。

梅丸楽劇団(UGD)とは

まずドラマの梅丸楽劇団(UGD)の紹介から。

劇中の紹介によると。東京の梅丸が男女混成で作った新しい楽劇団。

制作部長に辛島純平。
演出家に松永財閥の御曹司で西洋で音楽を学んだ松永大星。「別れのブルース」がヒットしている作曲家・羽鳥善一をむかえて結成されました。

少女歌劇団よりも大人向けのダンスと歌を中心に公演。様々な分野から優秀なスタッフが集められました。大阪のUSKからは福来スズ子と秋山美月が参加しています。

ここで福来スズ子は羽鳥善一の指導を受けて歌手としてデビュー。「スウィングの女王」と呼ばれる人気歌手になります。

目次

松竹楽楽劇団とは

松竹楽劇団は松竹が東京で編成した新しい楽劇団。

松竹は宝塚を意識した少女歌劇団を東京(SSK松竹少女歌劇団)と大阪(大阪松竹少女歌劇団OSSK)にもっていました。笠置シズ子が在籍していたのがOSSKです。

でも松竹は少女歌劇では宝塚に人気で負けていました。さらに東宝が日本劇場で日劇ダンシングチームをデビューさせて非常な人気になりました。

そこで松竹は日劇ダンシングチームに対抗して、歌とダンスを中心に公演する男女混成の新しい楽劇団を編成しました。

昭和13年4月(1938年)。松竹楽劇団(SGD)が帝劇(帝国劇場)で旗揚げしました。東京丸の内にある帝国劇場が本拠地です。

松竹創業者の息子・大谷博が楽劇団部長を兼任。SGDの設立も大谷博のアイデアです。少女歌劇だけではどうしても東宝系(宝塚は東宝系)に負けるので、大谷博がこの劇団にかける情熱は大変なものがありました。

大谷は大人向けにアメリカで流行っているジャズを取り入れようと考え。各方面から一流の人材を集めました。

指揮者に音楽会の権威・紙恭輔を迎え。紙恭輔の推薦で副指揮者に服部良一が選ばれました。

構成とジャズの指導には三井物産の創業者の孫で「次郎冠者」こと益田貞信が参加。マスコミの注目を集めました。貞信の父・益田太郎男爵も音楽が好きで「太郎冠者」のペンネームで演劇の脚本を書いています。

松竹楽劇団(SGD)のスターたち

SGDはダンスチームを編成するため、外部から採用したり、新しく人を募集しました。

男性スターではなんといってもタップダンスの名手・中川三郎。彼は圧倒的な演技力で観客を驚かせました。アメリカで修行して帰国後は、吉本に所属して浅草の舞台に立っていました。

松竹のグループ内からも有望な人材が集められました。このとき大阪のOSSKから移籍したのが笠置シズ子です。東京のSSKからは天草みどりが移籍しました。

他にも旗揚げ興行では松竹系の歌劇団から劇団員が参加、ショーを盛り上げました。OSSKの秋月恵美子は移籍ではなく、SGDが軌道に乗るまでの限定参加です。東京のダンシングチームや大阪のロケットガールズも応援に駆けつけました。

大好評だった松竹楽劇団

こうして4月28日。松竹楽劇団は盛大にデビュー。このとき笠置シズ子はジャズを歌い。秋月恵美子がタップダンスを披露。そしてとくに注目を集めたのが中川三郎のダンスでした。世間での評判も高く、連日満員。大成功しました。

その後、数回の公演が行われ。大阪の応援組が帰った後も好評でした。

しかし益田貞信は松竹を去ってしまいます。松竹は大衆受けするショーを目指しましたが。益田貞信はアメリカ風のジャズを目指していました。益田の作風は松竹の大衆路線にはあわなくなってしまったのです。結局、才能が十分に発揮できない益田貞信は去る事になりました。

しかし益田貞信が育てたダンシングチームはSGDを支えました。益田貞信が去った後のSGDの音楽を支えたのが服部良一です。やがてSGDの舞台でスウィングジャズを歌う笠置シズ子はスウィングの女王と呼ばれ人気になります。

松竹楽劇団は設立したばかりのころは少女歌劇の延長線のようなもので歌も踊りも劇もあるにぎやかなものでしたが、徐々に修正して音楽とダンス中心の公演に落ち着きました。音楽中心で公演ができるようになったのも服部良一の存在が大きいです。

実は松竹歌劇団の本拠地「帝劇」は東宝から借りていた物でしたが。昭和15年に契約が切れたので東宝に返されることになりました。松竹楽劇団は本邦座で公演を続けます。本邦座は帝劇より狭いのでさまざまな問題もあったようです。

日中戦争が泥沼化して規制が強まる

昭和15年になると日中戦争は泥沼化。公演内容にも当局の規制が入り徐々に制限がかけられるようになります。もともとアメリカ風のジャズを取り入れ、西洋的な音楽が中心の公演が多いのが特徴でした。題名にカタカナが並ぶ演目が非難され、当局の検閲指導も厳しくなり。とくに派手な動きの笠置シズ子の歌や踊りには当局から規制がかかりました。

解散

男性団員が兵役につき、舞台に上がる男性メンバーが不足。それでも人手をやりくりしながら、公演を続けていましたが。そのままの形では公演を続けるのが難しくなりました。

そして昭和16年の正月公演を最後に松竹歌劇団は解散しました。その年の12月、太平洋戦争が始まります。

松竹歌劇団が活動したのはわずか3年。

太平洋戦争直前までアメリカ風音楽が賑わっていたのは意外に思うかもしれませんが。さすがに時代の流れには逆らえませんでした。

その後、松竹歌劇団に所属していた人たちはそれぞれの場所に散っていきました。

笠置シズ子は独立した楽団を設立しますが、太平洋戦争中は「敵性音楽」の烙印を押され東京での活動できなくなり。地方で公演を行います。

服部良一は芸術慰問団に加わり上海に向かいました。そこで自分の求める音楽を模索します。その中から「ブギウギ」を取り入れた服部音楽が誕生するのでした。

 

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