槙野千鶴(まきの ちづる)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。
演じるのは本田 望結(ほんだ みゆ)さん。
最終週では晩年の千鶴を松坂慶子(まつざか けいこ)さんが演じます。
槙野千鶴は槙野万太郎と寿恵子の末娘。
もでるになったのは牧野富太郎の娘・牧野鶴代でしょう。
ドラマ「らんまん」の槙野千鶴とモデルになった牧野鶴代を紹介します。
らんまんの槙野千鶴(まきの ちづる)
槙野千鶴は槙野万太郎と寿恵子の娘。
兄弟の中でも一番年下。幼いころは姉の千歳からもよく怒られていました。
晩年の万太郎と寿恵子を支えます。
青年期の 千鶴を演じるのは 本田 望結(ほんだ みゆ)さん。
女優やスケーターなど幅広い分野で活動しています。
NHK連続テレビ小説は初出演。
最終週では昭和33年当時の千鶴を松坂慶子(まつざか けいこ)さんが演じます。
牧野鶴代
槙野千鶴のモデルになったのは牧野鶴代。
牧野富太郎と寿衛子の三女。
史実では妹がいるので末っ子ではありません。
生年:1898年5月12日
没年:1974年5月12日
弁護士・社会主義運動家の額賀二郎と結婚。しかし結婚生活はうまくいかずに離婚。子供をつれて実家に戻りました。
その後は母・寿衛子とともに父の研究を助けました。
母の死亡後は父の面倒をみて研究も助けました。
牧野富太郎が東大を辞める
牧野富太郎が77歳のとき東京帝国大学に辞表を提出。47年勤めた大学を辞めました。
牧野富太郎は講師でした。講師には定年がありません。何歳でも契約更新はできますが契約更新できなければ職を失う不安定さもあります。
牧野富太郎はそろそろ辞めようかと周囲に語ったことがありました。東大植物学教室の教授たちも牧野にはもう辞めて欲しいと思っていました。
そこで教授たちは東大理学部部長の代理として植物学教室の助手2人を牧野家に派遣。彼らは「辞表を出してください」と催促しました。
牧野富太郎は突然家にやって来て失礼な言い方をする助手の態度に腹が立ちました。彼らを叱りつけた後、怒りのあまり辞表を書いてしまいました。隣の部屋でそのやり取りを聞いていた鶴代も怒りと悲しみのあまり使者に文句を言って泣き出してしまったということです。
助手も教授たちに言われて派遣されたのでまさか怒られるとは思っていなかったでしょう。
当時有名人だった牧野富太郎の辞任は新聞記事にもなり、世間では注目を浴びました。牧野富太郎も辞める機会はあったのに辞め時を間違えたと悔やんだようです。鶴代にとっては尊敬する父が大学に無理やり辞めさせられたように思えたでしょう。牧野富太郎の辞任を誰よりも悲しんだのは鶴代だったかもしれません。
植物採集に同好
牧野富太郎は全国各地の植物愛好家の集まりに呼ばれて講演したり、植物最集を行っていました。牧野富太郎は一人で出かけていたのですが、歳をとると鶴代が同行するようになりました。でも牧野富太郎は植物のことになると時間を忘れるので鶴代が時間通りに家に戻れるよに面倒をみていたようです。
太平洋戦争中の苦労
昭和16年(1941年)太平洋戦争が始まりました。昭和20年(1945年)には東京も空襲を受けるようになります。ついに牧野家のある大泉の周辺にも爆弾が墜ちました。鶴代は毎晩防空壕まで父を連れていきました。鶴代が父を疎開させようと思っても頑固な牧野富太郎は言うことをききません。
でも昭和20年の空襲で牧野植物標本館の一部が破壊されました。5月には東大の学生・篠遠喜人の説得で牧野富太郎は疎開を決意。牧野富太郎と藤井健次郎は山梨県の篠遠喜人の親戚の家に身を寄せました。牧野富太郎は農家の養蚕室を借りて執筆活動を続けます。
その後も鶴代は生活に必要な荷物を取りに1、2日おきに東京と山梨を何度も往復。空襲の危険のあるなかで中央線に乗って言ったり来たりするのは大変だったようです。
その後、戦争が終わり12月になって東京の自宅に戻っています。
鶴代は富太郎の晩年をともに過ごしました。病気で寝込むと看護婦とともに看病もしました。
昭和32年(1957年)。牧野富太郎が死去。
牧野富太郎死後の鶴代
牧野富太郎の死後。鶴代は富太郎の残した遺品の管理をしていました。
敷地や家の他に膨大な植物標本や蔵書など。管理しなくてはいけない物はたくさんありました。
その後。東京都は牧野富太郎の家を「牧野記念庭園」として残すことを決定。
東京都と鶴代たち遺族との間で契約がかわされ。牧野富太郎の住んでいた家は東京都の所有になり(後に練馬区に移管)。記念庭園としての整備が始まりました。
昭和33年(1958年)年には生家と敷地を記念庭園として一般公開開始。
記念庭園の隣に土地が用意され、鶴代はそこで暮らしました。
昭和35年(1960年)。鶴代は4万点以上もある牧野富太郎の蔵書を高知県の牧野植物園に寄贈。牧野植物園は牧野富太郎の生前に計画したものですが予算不足もあり、完成したのは富太郎の死後でした。完成してしばらくは小さな植物園でしたがその後、拡張。大量の蔵書が寄贈されて本で唯一文庫のある植物園になっています。
牧野富太郎の生前から数十万枚もある植物標本をどこかで保管しなければいけないという話はあったのですが。なかなか進展していませんでした。牧野富太郎と交流のあった朝比奈泰彦たちが保管先を確保するため奔走。でも東大や国立博物館は受け入れを拒否。東京都立大学も最初は保管を断りましたが。保管場所と人手が用意できるようになったので東京都立大学が標本を受け入れることになりました。東京都立大学は職員やアルバイトを動員して標本の整理を行いました。最初は10年ほどを見込んでいましたが想像以上に大変な作業だったので20年近くかかりました。
鶴代は自ら父の想い出を書いた記事もいくつか発表。
牧野富太郎の死後に彼が様々なところで発表した記事をまとめた「牧野富太郎選集 第1~5巻」が発行されました。鶴代はこの編纂にも関わっています。
昭和45年(1970年)。牧野鶴代が死去。
牧野富太郎には子供が何人もいました。父と一緒に暮らした時間が最も長く、最期まで付き添ったのが牧野鶴代でした。
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