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ブギウギ:中山史郎のモデル 中川三郎は一流ダンサーで日本に社交ダンスを広めた人物

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中山史郎は NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ブギウギ」の登場人物です。

演じるのは小栗基裕 さん。

中山史郎は日本を代表するダンサーです。
タップダンスの名人で、戦後は社交ダンスを日本に広める活動もしました。

ドラマ「ブギウギ」の中山史郎とモデルになった中川三郎を紹介します。

目次

ドラマ「ブギウギ」の中山史郎とは

名前:中山史郎(なかやま しろう)
演:小栗基裕 (s**t kingz)

日本を代表するダンサー。
タップダンスの名人。梅丸楽劇団では振り付けも担当します。

演じるのは小栗基裕さん

東京都出身。1987年生まれ。

4人組ダンスパフォーマーグループs**t kingzのメンバー。
映画「孤狼の血 LEVEL2」にも出演。

 

中山史郎のモデル 中川三郎(なかやま さぶろう)

中川 三郎

大正5年(1916年)生まれ。

大阪府出身。

中川三郎は中学生のころからダンスホールに通いその雰囲気を楽しんでいました。慶應義塾大学予科に進学。東京でもダンスホールに入り浸っていました。

中川三郎の姉の友人でジャズ歌手の天野喜久代の紹介で伊庭孝と知り合い、彼の指導を受けるようになりました。伊庭孝は日本の歌劇の創始者とも言える人物。当時の日本の演劇界の権威でした。

伊庭孝のもとには音楽やダンスを学ぶ人ぶとが集まっていて中川三郎は慶応大学出身の作詞家・藤浦洸とも知り合います。

アメリカで一流のダンスを学ぶ

中川三郎は伊庭孝の勧めでアメリカに留学。アメリカではブロードウェイのダンス教師からタップダンスを学び。マチスンリズムボーイズという三人組ダンスチームのいち員として活動。一流ダンサーと交流しました。

ダンスホールで行われる賞金のかかったコンテストに参加しては賞金稼ぎをしていました。

全米ダンス教師の団体DTBAの主山するダンス大会に出場。自分で創作した「ボレロ・デ・ヤマト」を発表、高い評価を得ました。本場アメリカ仕込みのダンスとショーマンとしての合理性、業界で生き抜く術を身に着け、アメリカ留学は大きな収穫がありました。

昭和11年(1936年)。母親が死去したため帰国。

日本に帰国後人気のダンサーになる

当時の日本の芸能界ではタップダンスが流行。宝塚や松竹歌劇でもタップダンスを行うほどでした。

帰国した中川三郎はさっそく注目を集め。日比谷公会堂で行われた発表会でデビュー。斬新なプログラムと演出は観客を驚かせました。

アメリカ帰りで美男子だった中川は女性にモテモテ。共演したことのあるダンサー兼歌手の上村まり子(芸名はマリー・イボンヌ)と結婚、世間を驚かせました。

当時、吉本は落語や漫才で成功していましたが、ジャズを取り入れたショーを行い東宝や松竹に対抗しようとしていました。そこで吉本は中川三郎に当時のベテラン芸人の2倍という破格のギャラを提示。破格の待遇でした。中川は吉本興業と1年の契約を結びました。中川は浅草花月劇場に出演しましたが、昔ながらの演劇の舞台では中川の個性を十分発揮することはできずもどかしい想いがありました。

契約終了後。中川は自分のショーグループ「中川ハタアズ」を作り、花月劇場を中心に東宝の劇場でも出演しました。

アメリカ風を追求した松竹楽劇団時代

その後、松竹から声かがかかり松竹楽劇団の主役スターになりました。

益田貞信はアメリカ風のショーを作りたいと思っていたので中川はどうしても欲しい人材でしたし。中川としても自分のやりたかったショーを松竹という大資本がお金を出してできるというメリットがありました。

松竹楽劇団の中でも中川のタップダンスはずば抜けていて、観客からも高い評価を得ました。中川三郎や益田貞信の趣味が詰まった松竹歌劇団のショーは戦前の日本とは思えないくらいアメリカ風の演出が行われていました。中川は笠置シズ子とともに松竹楽劇団の看板スターになります。

しかし中川三郎は松竹を退団。益田貞信が去ったあと演出を担当した並木行雄と意見が合わなくなったためと言われます。

 

戦争でタップダンスができなくなる

独立後は中川ハタアズを再結成。各地で公演を行いました。

昭和16年(1941年)。太平洋戦争が始まり。ジャズとともにタップダンスにも規制がかかり。ダンスホールは次々に閉鎖。タップダンスを体操風にアレンジしたり、なんとかタップダンスを残そうとしましたが、戦時中はまったくタップダンスができませんでした。タップダンスを練習しているとモールス信号と間違われスパイ容疑をかけられたこともありました。

戦後はダンスの普及に尽力

昭和20年(1945年)。戦争が終結。中川三郎はダンスホールを建設。当初はGHQの将校が主な来客でしたが、ダンスの普及に

昭和30年(1955年)。全日本職業舞踊家協会を設立。初代会長になりました。

昭和33年(1958年)。中川三郎スタジオ設立。日本中のスタジオネットワークを作りました。

このころダンスミューズジックのレコードを毎年発売。新しい音楽とダンスを流行させました。このころ社交ダンスを日本中に広めました。

昭和30年(1965年)。渋谷区の恵比寿に日本初のディスコといわれる「中川三郎ディスコティック」を開業しました。オーナーは三女・ゆき。そのため「ゆき・ア・ゴーゴー」とも呼ばれました。大人気となります。さらに銀座や各地にダンススポットを作りました。

その後もダンスの普及に尽力。日本のダンスの歴史を紹介した「ダンス元年」を編集・出版。他にも「ジャギー教本」「現代のマナー」「ビバ!フランキー」「踊らんかな!人生」などの著書があります。

紺綬褒章、藍綬褒章、社会文化功労賞、国際アカデミー大衆賞を受賞。ギリシャナイト称号を与えられています。

平成15年(2003年)。死去。享年85歳。

中川三郎は日本のトップダンサーであると同時に。社交ダンスを日本に広めた第一人者です。日本でディスコの生みの親とも言われます。それ以外にもダンスに関わる幅広い分野で活躍し、日本のダンス文化の発展に貢献しました。

ドラマ「ブギウギ」との違い

ドラマの梅丸楽劇団(UGD)のモデルが松竹楽劇団(SGD)。UGDの本拠地・日帝のモデルが帝劇です。

松永大星(益田貞信のモデル)の演出でアメリカ風の演出が行われるのはほぼドラマどおり。

秋山美月は最初から帰る予定

ドラマでは中山が秋山美月を指導する場面や、中山と秋山がともにステージに立ってショーをする場面もあります。

秋山美月のモデルはOSSKの秋月恵美子。史実でも松竹楽劇団の旗揚げ公演には大阪から応援に来ていました。でもOSSKから移籍になった笠置シズ子と違って、秋月恵美子は松竹楽劇団の旗揚げのためにやってきた臨時のメンバーです。

中山史郎と秋山美月はコンビを組んでいない

ドラマでは中山史郎と秋山美月は共演します。でも史実では中川三郎と秋月恵美子はそれぞれソロでタップダンスを披露。中山史郎と秋月恵美子はコンビを組んではいません。

中山史郎は秋山美月にプロポーズしていない

またドラマでは中山史郎は秋山美月に娘役への転向を進めプロポーズします。でも実際には中川三郎は既婚者。恋愛関係にもなってません。

 

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