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らんまん:西村寿恵子のモデル・牧野寿衛子(小澤寿衛子)とは

らんまんアイキャッチ

西村寿恵子(にしむら すえこ)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは浜辺 美波さん。

東京の和菓子屋 白梅堂の娘。

東京にやってきた槙野万太郎と運命的な出会いをして結婚。

苦労しながらも研究のためにお金を使い込む万太郎を支えて頑張っていきます。

西村寿恵子のモデルになった人物は小澤寿衛子(牧野寿衛子)です。

ドラマ「らんまん」の西村寿恵子とモデルになった小澤寿衛子(牧野寿衛子)を紹介します。

目次

「らんまん」の西村寿恵子とは

名前:西村寿恵子(にしむら すえこ)/慎野寿恵子
演:浜辺美波
  朝ドラ初出演。
  主な出演作は「君の脾臓を食べたい」など。

主人公・槙野万太郎の妻。

東京・根津で母とともに和菓子屋「白梅堂」を営んでいました。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」が好きで見たこともない世界に憧れています。東京の内国勧業博覧会にやってきた槙野万太郎と運命的な出会いをして、後に結婚。

ところが研究のためにお金をつぎ込む万太郎のおかげで生活が大変なことに。寿恵子はあの手この手で家計をやりくり。でも貧しくても明るく生きていきます。やがて秘めた才能が開花、最終的には驚きの方法でお金を溜めて万太郎と家族を救います。

 

牧野寿衛子とは

ドラマの西村(慎野)寿恵子のモデルになったのが、植物学者・牧野富太郎の妻・寿衛子(すえこ)です。

寿衛子は明治6年(1873年)に誕生。

父の小澤一政は彦根藩主井伊家の家臣。明治になると陸軍省営繕部に勤務していましたが他界。
母の あい は京都出身。若い頃には芸者をしていたこともあります。

寿衛子の幼い頃は家も裕福で寿衛子は歌や踊りの習い事などをしていました。父・一政が亡くなったあと家を売り、母は数人の子供を育てながら飯田町で菓子屋を営んでいました。寿衛子は末っ子でした。

その菓子屋は牧野富太郎が大学に通う途中にありました。富太郎は酒は飲めずタバコも吸いません。でもお菓子は好きでしたのでよく買っていました。そのため店先に立つ寿衛子と会う機会が増え好きになってしまいます。

牧野富太郎と結婚

自叙伝によると、富太郎は印刷屋の太田に相談。太田は寿衛子の母に連絡をとりました。すると寿衛子もよく店にやって来る富太郎が気になっていました。太田の仲介で二人は結婚しました。

富太郎と寿衛子は根岸の借家で暮らし始めました。

富太郎と寿衛子の間には13人の子供が生まれましたが、そのうち6人は幼くして死んでしまいます。

富太郎は金銭感覚が無く。次々と高価な資料を買いました。遊びやギャンブルで使っているのではなく研究につぎ込んでいました。また余裕もないのに子供の教育や科学の普及のために援助することもありました。さらに富太郎がてがけた「日本植物志」は自費出版。

大学助手の給料はサラリーマン以下。子だくさんで生活が豊かとはいえない中での高額の出費が重なり。借金が膨らみます。

借金取りを追い返す

借金取りが家に来たときは寿衛子がいろいろと理由をつけて追い返していました。借金取りは怒って居座ろうとしますが。寿衛子が話をすると富太郎の研究を関心する者がいたり、中には同情して涙を流す人もいました。

凄い話術で借金取りを追い返したり家計をやりくりしていた寿衛子ですが。生活は楽になりません。家賃の滞納を続けたため牧野一家は借家を追い出されたこともありました。

それでも寿衛子は子どもたちに「学問のための貧乏だから恥ずかしがらずに胸をはりなさい」と言い聞かせていました。

 

料理屋を開き家を建てる

実績と名声のある富太郎には援助してくれる人が現れ。借金は帳消しになりました。ところが富太郎また借金を作ります。するとまた支援者に助けてもらうの繰り返しでした。ピンチになるたびに救ってくれる人が現れるのは富太郎の人柄なのかもしれません。

でもそれではいけないと寿衛子の提案でもっと稼げる店を開くことになりました。

寿衛子は渋谷で一軒家を借りて料理屋を出しました。名前は「いまむら」にしました。当時「待ち合い」と呼ばれる店でした。「待ち合い」とは接待や会合に使う料亭です。

母が人気の芸者ということもありその血を受け継いでいるのか。寿衛子は美人で客の対応も上手ったのでたちまち店は評判になりました。牧野家も経済的な余裕も生まれました。

ところが世の中では「待ち合い」を水商売と同じだと誤解する人もいました。頭の堅い大学の人たちからは批判されます。

やがて景気も悪くなりつつあった時期でもあったので寿衛子は「いまむら」を売却。

寿衛子は「都会では火事が多いので標本が燃えてしまう」と、火事のおきにくい田舎(練馬区大泉)に一軒家を建てようと計画。寿衛子はここに立派な植物標本館を建てて牧野植物園を作りたいという夢を持っていました。

寿衛子のやりくりや様々な人の援助もあり家が完成しました。

昭和3年(1928年)1月。家ができてまもなく寿衛子は入院。その1ヶ月後、寿衛子は大学の青山外科で亡くなりました。享年55歳。

新種「スエコザサ」

富太郎は深く悲しみました。そして寿衛子が生きていたときに採取していた新種の笹に「スエコザサ」(学名:ササエラ・スエコアナ・マキノ)という名前を付けて発表しました。

富太郎は自宅の庭にスエザサを植え妻を懐かしんだといいます。

富太郎と夢を共有した寿衛子

寿衛子は生前。
「生活費のことは私に任せて、好きなだけ研究に没頭してください」
「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と話していました。

富太郎の夢を自分の夢と考えていました。

寿衛子がいなかったら富太郎の業績もなかったのは間違いありません。

寿衛子の墓は富太郎とともに谷中天王寺にあります。
墓碑には牧野富太郎の寿衛子への感謝と愛を込めた句が刻まれています。

「家守りし妻の恵みやわが学び」
「世の中のあらん限りやスエコ笹」

 

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