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らんまん:永守徹のモデル・池長孟は南蛮美術コレクター

らんまん

永守徹(ながもり とおる)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは中川大志さん。

永守徹は早川逸馬の紹介で槙野万太郎と出会い、資金援助をする資産家です。

永守徹のモデルになったのは正式なアナウンスはありませんが。資産家で美術品コレクターの池長孟に間違いありません。

ドラマ「らんまん」の永守徹とモデルになった池長孟を紹介します。

 

目次

らんまんの永守徹(ながもりとおる)

資産家の青年。おじの遺産を受け継ぎました。
早川逸馬の紹介で牧野富太郎と出会い、万太郎が図鑑を発行するために必要な資金援助とすると言います。

演じるのは 中川大志(なかがわ たいし)さん。
出演作は多数。
NHK連続テレビ小説「おひさま」 須藤春樹、「なつぞら」 坂場一久
NHK大河ドラマ「江」細川光千代 、「平清盛」源頼朝、「真田丸」豊臣秀頼、「鎌倉殿の13人」畠山重忠 。
など。

 

南蛮美術蒐集家・池長孟(いけなが はじめ)

永守徹のモデルになったのが美術品蒐集家(しゅうしゅうか)の池長孟(いけなが はじめ)です。莫大な私財を注ぎ込み、南蛮美術品(西洋美術品)を買い集めました。

蒐集(しゅうしゅう)は集めること。貴重なものを趣味や研究のために集めることです。

教科書に載るほど有名な「フランシスコ・ザビエルの肖像画」や狩野内膳筆「南蛮屏風」(南蛮人(スペイン・ポルトガル)が安土桃山時代の堺で活動している様子を描いた屏風)も池長孟のコレクションのひとつです。

 

池長孟は明治24年(1891年)、神戸市で生まれました。

財産を使って南蛮美術を集める

名家の出身で幼い頃に叔父の池長通の養子になりました。叔父死後、遺産を相続。育英商業学校をしながら趣味の南蛮美術(西洋美術)を買い集めました。

昭和15年(1940年)。池長美術館を会館。それまでに買い集めた美術品を展示しました。

しかし昭和19年(1944年)。戦争のために閉館。

昭和21年(1944年)。臨時の財産税が導入され莫大な税金をかけられました。経営難になった池長孟は美術品を切り売りして凌ぐようになりましたがそれにも所得税がかかります。

また池長孟もガンに侵されました。

昭和26年(1944年)。病気と経営難で苦労した池長孟はついにコレクションと建物を神戸市に寄贈しました。

昭和35年(1955年)。池長孟もは闘病生活の末に亡くなりました。享年64歳

池長孟の美術館が神戸市博物館に生まれ変わる

「市立神戸美術館」になって再スタート。現在は神戸市博物館」の一部になっています。

池長孟は猛烈な美術品への愛のため財産を食い潰して美術品を買い集めました。

美術品は社会の宝

個人の自己満足だけでなく、神戸のような国際都市に美術館がないのは恥ずかしいこと考えていました。教育者でもあった池長孟は教科書に書いてのを覚えるだけの勉強よりも社会的な教養を身につけるのが大切だと考えていました。

また美術品は社会の宝とも考えていたので価値のあるものが失われる前に手に入れて保管して人々に見せるのが自分の生きがいと思っていたようです。

池長孟のような人がいたおかげで貴重な文化財や美術品が残り、今我々が目にすることのができるのです。

 

牧野富太郎への援助

池長孟は若いころ、牧野富太郎に資金援助をしたことがありました。

牧野富太郎が借金で苦しむ

大正5年(1916年)。借牧野富太郎は金で苦しみ、集めた標本を売ろうかと考えていました。でも植物標本を高額で買い取るようなもの好きが日本にそういるとは思えません。牧野は価値を知っている海外の方が高く売れるのではないかと思いました。

それを知った農学士で新聞記者の渡辺忠吾は貴重な日本の標本が海外に出てしまうのは惜しいと考え、牧野富太郎を説得。牧野が経済的に苦しんでいることを正直に世間に話して支援者を募ることになりました。

まず東京朝日新聞に記事が掲載され。長谷川如是閑(にょぜかん)が大阪朝日新聞にも記事を書きました。それを見た池長孟が援助を申し出ました。

池長孟が牧野富太郎を援助

大正6年1月(1916年)には池長孟が牧野富太郎を援助することを新聞発表。

大正6年12月(1916年)。牧野富太郎は妻・須衛子とともに神戸に向かい契約を済ませました。

池長孟は牧野の標本10万枚を3万円で買い取り、牧野にも研究費を援助する事になりました。

しかも池長孟は買い取った標本を牧野に寄贈しようとしましたが。牧野は拒否。そこで池長孟は叔父から受け継いだ建物「正元館」に標本を保管。植物研究所を設立しました。池長孟は「牧野植物研究所」にするつもりだったようですが、牧野の提案で「池長植物研究所」となり標本はそこに展示されることになりました。

牧野は月に一度は池長植物研究所に来て講演をしました。そしてここを拠点に西日本での植物採集を行いました。

このころから西日本で植物愛好家たちが同好会を作り、植物の観察や採集会を開くようになっていました。設立には牧野富太郎も関わっています。池長植物研究所は牧野富太郎にとって関西の植物愛好家との交流の拠点になりました。

 

牧野富太郎との関係悪化

ところが池長孟の母しまは金銭感覚の悪い牧野を嫌いました。さらに池長家の女中に牧野が手を出したことがわかり、しまは滅茶苦茶に怒ります。

しまは池長孟の養母です。養子になった孟を実の子同然に育ててきました。池長孟は標本作りも進まず研究所の開館の目処も立たないので焦っていました。そこに母からの苦情も重なって牧野に金を返すか標本を返すよう迫りました。池長孟は植物標本を燃やすとまで脅しています。

牧野富太郎は変わり者ですが、池長孟も子供じみたところがあります。

このときは新聞社の長谷川如是閑たちが仲裁。池長孟は牧野の援助を続け、池長植物研究所は無事開館。牧野が発行する植物雑誌の費用も負担します。

ところが牧野は標本の整理をほとんどせずに植物採集と植物雑誌の発行に明け暮れています。講演会を無断で欠席することもあります。「池長植物研究所」は植物標本の保管場所になっていました。

いよいよ我慢できなくなった池長孟は独断で標本を京都大学に寄贈して整理してもらおうとします。それを知った牧野は猛烈に反対。牧野富太郎も子供みたいなところがあって、自分をないがしろにしたり、自分を思い通りに動かそうとする人がいると猛烈に反発します。標本寄贈の話はなくなりました。でも二人の関係は悪化。

昭和3年。池長孟は牧野富太郎への援助を打ち切ります。

池長植物研究所の終わり

結局、植物標本は25年近く「池長孟植物研究所」で放置されました。

池長孟にとっては「牧野富太郎のような有名人を自分の手元に置いてみたい」という道楽だったのかもしれません。でも牧野富太郎は自分のエゴで他人をコントロールしようとする人を猛烈に嫌います。

でも池長植物研究所は牧野富太郎が関西や西日本で活動するときの拠点になりました。関西の人々に植物への興味や面白さを広めることには役に立っています。

それこそ池長孟が目指した「社会的な教養を身につけること」だったのではないでしょうか。

昭和16年。牧野富太郎、池長孟の立会いのもと植物標本は池長孟植物研究所から運び出されました。このとき池長孟は莫大な財産のほとんどを南蛮美術コレクションに費やしていました。

牧野富太郎との間には行き違いもありましたが。池長孟は尊敬する人物に牧野富太郎と南方熊楠をあげています。

好きなことに金を湯水のように使う、自分が好きなものは他人にも知ってほしい。興味を持って欲しい。池長孟と牧野は似た者同士だったのかも知れません。

偽物をつかまされ大損することも多いのが美術品収拾ですが。池長孟の集めたものは歴史的にも貴重なものが多く、池長孟はただの金持ちコレクターとは違います。

若い頃に牧野富太郎のような個性の強い人物に出会い交流したのは池長孟のコレクター人生にも大きな影響を与えたかも知れません。

 

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