広瀬裕一郎(ひろせ ゆういちろう)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。
演じるのは中村蒼さん。
名教館(めいこうかん)という学校に通う慎野万太郎の学友。
広瀬裕一郎のモデルになった人物は広井勇(ひろい いさみ)です。
「港湾工学の父」といわれる土木工学の権威。
広井勇は伊藤 蘭林に学問を教えた広井遊冥のひ孫になります。
ドラマ「らんまん」の広瀬裕一郎とモデルになった広井勇を紹介します。
ドラマ「らんまん」の広瀬裕一郎 とは
名前:広瀬裕一郎(ひろせ ゆういちろう)
演:中村蒼
大河ドラマ「八重の桜」
朝ドラ「エール」
「あかひげ」シリーズに出演。
土佐国佐川の武家の出身。
名教館(めいこうかん)で学ぶ槙野万太郎の学友。
土木工学を学んで工務部に入省。鉄道を通す仕事をしています。
後に東京に出た万太郎が再び出会うことになります。
「まんらん」では万太郎以外にも明治の日本を切り開いていく人物が登場します。広瀬裕一郎もそのひとり。
廣井勇(ひろい いさみ)
廣井勇(ひろい いさみ)
広井とも書きます。
土佐の武士として生まれ
幕末の1862年9月2日。土佐国の佐川村内原(現在の佐川町上郷)で生まれました。
家は武士の家系。父の廣井喜十郎は土佐藩・筆頭家老深尾家に仕える藩士でした。
幼い頃の名前は数馬(かずま)
数馬は深尾家が建てた私塾の名教館(めいこうかん)で学問を学びました。このとき教えていたのは儒学者 伊藤蘭林(いとうらんりん)です。
同じ学校には後に植物学の父と呼ばれる牧野富太郎もいました。
数馬の曽祖父 廣井遊冥は伊藤蘭林の師でした。
ところが父が37歳で死亡。数馬は9歳で廣井家当主になってしまいます。数馬は名前を「勇」に変えました。
東京に出る
その後。叔父の片岡利和に頼み込んで東京に出て。片岡家で書生をしながら私塾に通い、12歳で東京外国語学校に入学。優秀な成績を収めますが。札幌農学校では生活費も支給されると聞き、東京外国語学校を退学。札幌農学校の2期生として入学ました。
札幌農学校で学ぶ
このころ札幌農学校ではウィリアム・スミス・クラーク博士は帰国していましたが、後任のウィリアム・ホイーラーやセシル・ピーボディの熱心な指導のもと土木工学、測量、数学、図学を学びました。また札幌農学校ではクラークやホイーラーの方針で学生の多くがキリスト教に改宗していたので、広井勇も改宗しました。
札幌農学校卒業後は北海道開拓使になりましたが、開拓使が廃止になったので工部省に配属され東京で勤務します。
自費でアメリカ留学
その後、自費でアメリカ留学。アメリカでは工事現場で働きながら学費を稼ぎ、鉄道の橋梁の設計、施工に関わりました。英語で論文を書き。「プレート・ガーダー(鈑桁橋)建設法」という名前で出版。高い評価を受けました。日本の橋梁工学者の間では大変指示され。今でも理工科系の大学にはこの本があります。
帰国後、港湾、橋梁、ダムなどを作る
1889年に帰国。母校の札幌農学校の教授になりました。
札幌農学校で教育に携わる一方で、北海道庁で技師を兼任。北海道の多くの港湾建設を指揮しました。とくに難工事だったのが小樽港でした。暴風雨で破壊されたり日露戦争で予算が削られたりしましたが。10年の難工事の末に完成。小樽港は100年が経過した今でも立派に港として機能しています。
廣井はその後も、港湾、橋梁、ダムなどを手掛けました。
1899年には東京帝大工科大学(現在の東大工学部)の教授になりました。東京帝大では熱心に学生を指導。日本を支える様々な技術者を育てました。
その間も稚内港、函館港、釧路港、留萌港、大沼水力発電所(函館市)、広瀬橋(仙台市)、黒部ダム(日光市)など多くの建築物の設計指導を行いました。そのときも廣井勇は謝礼金を受け取らず。そのお金があるなら建築費に回すように言いました。
セメントを使った建築の研究も行いその生家はのちの関門橋の設計に役立てられています。
さらにかつてホイーラーたちが作った豊平橋(札幌)が崩落したままになっていたのが新しく作られることになり。廣井勇は設計指導を行いました。1924年(大正13年)。アーチ橋になった新しい豊平橋が完成。「北海道三大名橋」と呼ばれました。
1928年(昭和3年)。狭心症のため自宅で亡くなりました。享年65。
日本の建築界に大きな功績を残し、日本の近代化に貢献。「港湾工学の父」と呼ばれています。
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