猪爪はる(いのつめ はる)は NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」の登場人物。
ヒロイン・ 猪爪 寅子の母親です。
演じるのは石田ゆり子さん。
ドラマ「虎に翼」の 猪爪はるとモデルになった三淵嘉子の母親について紹介します。
ドラマ「虎に翼」の猪爪はるとは
名前:猪爪はる(いのつめ はる)
演:石田ゆり子
寅子の母。
家事を完ぺきにこなす現実主義的な考えの持ち主。
実家は香川県丸亀市の旅館を経営。旅館の娘として厳しく育てられました。
結婚が女性の幸せだと思い、夢を語る寅子には厳しくあたります。寅子が女学校を卒業したら結婚させようと考えています。ところが寅子が自分が香川の実家に戻っている間に明律大学女子部の入学を決めていたので反対。
でも最終的には寅子の入学を認めます。
武藤ノブとは
猪爪はるのモデルになったのは三淵嘉子の母・武藤ノブ。通名(通称)は信子。
香川の丸亀市で生まれ伯父夫婦の養女になる
武藤ノブの出身地は 香川県丸亀市。
幼い頃に親を亡くし、子どものなかった伯父夫婦に引き取られ育てられました。
養父母は裕福でノブを女学校までは通わせました。でも養父母はノブには厳しく、朝早くから女中のように働かされたといいます。家は裕福だったものの若いころは苦労していたようです。
貞雄と結婚
大正2年(1913年)。同じ丸亀出身の宮武貞雄と結婚。実は貞雄も武藤家の養子になっていて武藤家の援助で東大を出て台湾銀行に就職していました。
結婚後、貞雄はすぐ台湾銀行のシンガポール支店に転勤。ノブも貞雄と一緒にシンガポールに移り住みました。厳しく堅苦しい武藤家を離れたいという気持ちがあったのかも知れません。
ノブは非常に頭がよく、どの棚に何があるかをしっかり覚えていました。
シンガポールで暮らしている間に長女の嘉子がと長男の一郎が生まれました。
ところが大正5年(1920年)。貞雄がニューヨーク支店長になり、アメリカに転勤。
ノブと子どもたちは実家の香川県丸亀市の武藤家で暮らすことになりました。
せっかく厳しい養父母から離れたのにまた養父母と暮らすことになりました。でも今回は子どもたちがいます。ノブは子育てを優先。厳しくときには優しく子どもたちを育てました。
大正9年(1920年)。貞雄がアメリカから帰国。東京勤務になりました。
ノブと子どもたちは貞雄が渋谷で借りた家で一緒に暮らすことになりました。その後、麻布笄町(港区西麻生)に引っ越しすます。
その後、貞雄との間には次男・輝彦、三男・晟造、四男・泰夫が生まれました。
大正12年には関東大震災がありましたが、幸いにも一家は無事でした。
娘の嘉子が女学校に入学して一安心
長女の嘉子は成績優秀。東京女子高等師範学校(お茶の水大学)に入学しました。
女学校に入るのは嘉子の希望でしたが。ノブは嘉子以上に女学校入学を喜びました。
当時の女学校は花嫁修業の場と考えられていました。ノブは嘉子をどこに出しても恥ずかしくない良妻賢母にしようと思っていたので。女学校に入ればよいお嫁さんになれる。将来は安心だと考えていたのです。
嘉子の進学に反対するものの
ところが、嘉子はノブの考えとは正反対の選択をしてしまいます。
ノブと違い夫の貞雄は進んだ考えの人で、嘉子に家庭に入るだけの女にはなるな。専門の仕事をしなさいとアドバイス。嘉子は法律の勉強をすることに決めました。
そして、ノブが親戚の法事で香川に帰っている間に嘉子は明治大学女子部の入学手続きをすませていました。夫の貞雄が大学入学を勧めたのでした。
東京に戻ったら知らない間に嘉子の明大女子部への入学が決まっていたのでノブは怒って泣きながら反対しました。
「女が法律を学んでも自立できる保証はない。」
「嫁のもらいてがなくなる」
と猛反対しました。
そんなノブを貞雄と嘉子は時間を書けて説得。やがてノブは嘉子の入学を認めました。
かつてノブは「嘉子が男だったら」と友人にもらしたことがあり、嘉子の優秀さは誰よりも知っていました。ノブは娘の強い決意を知り、法律の道に進むことを認めます。
一度決めたらノブは嘉子を熱烈に応援しました。
ノブの晩年
その後、子供たちが結婚。
戦争がはじまると、夫の貞雄は台湾銀行を退職。神奈川県川崎市で火薬を製造する会社を経営し始めました。ノブも貞夫の仕事を手伝いました。
昭和19年(1944年)。長男の一郎が戦死。貞雄とノブは悲しみました。
昭和20年(1945年)。日本本土への空襲も激しくなり。貞雄は妻ノブとともに会社の社員寮で暮らしました。
嘉子と子の芳武、一郎の妻・嘉根は親類のつてを頼って福島に疎開しました。
昭和20年(1945年)。終戦。
昭和22年(1947年)。ノブは脳溢血で倒れ亡くなりました。
その年。夫の貞雄も肝硬変で亡くなりました。
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