野田基善(のだ もととし)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。
演じるのは田辺 誠一さん。
野田基善(のだ もととし)のモデルになった人物は、「日本の博物館の父」の父といわれる小野 職愨(おの もとよし)です。
漢字で書くと似ていないようですが、発音は似ています。
ドラマ「らんまん」に登場する野田基善と、彼のモデルになった小野 職愨を紹介します。
ドラマ「らんまん」の野田基善(のだ もととし)とは
名前:野田基善(のだ もととし)
演:田辺 誠一
万太郎が憧れている植物学者。
万太郎が子供の頃に模写していた「植物図」を里中芳生とともに作った人。
東京の博物館で働き。訪問してきた万太郎をあたたかく迎えます。熱心に植物学を学ぼうとする万太郎を歓迎。標本や顕微鏡を見せました。
二度目に上京したときには万太郎が作った「土佐植物目録」を見て感心して。東京大学の教授の推薦状を書きます。万太郎が東大に入るきっかけを作った人です。
野田基善のモデル小野 職愨(おの もとよし)とは
小野 職愨(おの もとよし)
1838年4月24日(天保9年4月1日)生まれ。
明治の植物学者。小野職孝(おの もとたか)
曽祖父に江戸時代の本草学者 小野蘭山(おの らんざん)がいます。
最初は医師になり江戸幕府の医学館で働いていました。
1861年。領土確定のために咸臨丸が小笠原諸島を訪問。このとき阿部喜任とともに医師として同行しました。小笠原での4ヶ月の滞在期間で植物採集をしました。
明治維新後は大学南校(後の東大法・理・文学部の原型)に入学。
卒業後は文部省に入り、1872年に発足した文部省博物局で働きました。
主に植物学の翻訳を担当。教育用の書籍の作成にも関わりました。
翻訳作業で得た知識や経験を持とに日本最初の植物学術用語の英語、ラテン語、日本語の辞典「植学訳筌」(1874)を出版。
田中芳男とともに、飯沼慾斎の「草木図説」に学名と科名を付けて「新訂草木図説」として出版しました。
小野職孝の著作には「植物浅解初編」など多くの植物関係の書籍があります。
1890年(明治23年)10月27日。死去。
牧野富太郎との関わり
明治41年(1881年)。東京で第二回国内勧業博覧会が行われ牧野富太郎は高知から東京にやってきました。
牧野富太郎の目的の一つに高知で見た「博物図」の執筆者「田中芳男」や「植物浅解初編」の著者「小野 職愨(おのもとよし)」に会うことでした。
富太郎が子供の頃に見ていた「本草綱目啓蒙」の作者・小野蘭山は小野 職愨の曽祖父です。
当時の小野 職愨は博物局(文部省の中にある組織)で田中芳男のもとで働いていました。
田中芳男はスケッチブックを持って高知からやってきた牧野富太郎を暖かく出迎え、小野職愨たちに博物局内を案内させました。
小野職愨は牧野富太郎をつれて物局内を案内、東京大学の植物学教室や小石川植物園も案内しました。
小野職愨は牧野富太郎を自宅に招待、最新の植物学や様々な話を聞かせました。
田中芳男や小野職愨たちは毎日のようにやって来る牧野富太郎をうるさがらずに相手して、「土佐植物目録」を作っているという牧野富太郎を励まし、植物標本の作り方や文献についての様々なアドバイスをしました。
東京での体験は牧野富太郎を非常に感激させ。富太郎が植物学にますますのめり込んでいくきっかけのひとつになります。そしておしげもなく知識を教えてくれ親切にしてくれる研究者に憧れ、彼らは自分の理想の姿、自分もああなりたいと思うようになります。
牧野富太郎に「研究者は素晴らしい立派な人」というイメージを与えたのが田中芳男や小野職愨たちでした。
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