NHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」では第10週から「福来スズ子とその楽団」が登場。
スズ子は梅丸から独立して自分の楽団とともに各地を巡業することになります。
モデルになった笠置シズ子も戦争中は「笠置シズ子とその楽団」を結成。地方を巡業していました。(1950年代までは「笠置シヅ子」ではなく「笠置シズ子」の名前で活動)
この記事ではドラマでの楽団ができたいきさつと、モデルになった笠置シズ子とその楽団を紹介します。
福来スズ子とその楽団
設立までのいきさつ
昭和16年(1946年)。戦争が激しくなり音楽活動にも様々な制限が欠けられていました。福来スズ子は持ち前の元気な歌とダンスが披露できなくなり、悩んでいます。
そんなとき、福来スズ子はどこの会社にも所属せず自分の楽団をもって活動している茨田りつ子の影響を受け。自分も楽団を持とうと決意。「福来スズ子とその楽団」を結成しました。
楽団のメンバー
「福来スズ子とその楽団」にはもちろん歌手の福来スズ子と演奏者が所属。楽団のメンバーは梅丸楽劇団時代の仲間もいます。スズ子とともに活動する楽団のメンバーを紹介しましょう。
一位(いちい)
バンドマスター。トランペット。
梅丸時代からの仲間。
二村(にむら)
ピアノ。楽団で一番の若手。
三谷(みたに)
ギター。ベテラン。
四条(しじょう)
ドラム。大柄な人物。
五木(いつき)
マネージャー。
梅丸楽劇団の辛島部長の紹介。自称”腕利き”
そして再び尋ねてきた小林小夜がスズ子の付き人を務めます。
楽団の活動
会社に所属せず自由な活動をしようとしたスズ子ですが。「福来スズ子は敵性音楽を歌っている」という悪評がたち12月になっても公演ができませんでした。
羽鳥善一の協力で茨田りつ子との合同コンサートが実現。このとき戦死した弟をイメージした「大空の弟」を歌います。
その後は地方を巡業。
巡業先の名古屋ではある人との出会いもあります。
しかしスズ子と最愛の人との仲を裂くための妨害工作が入り、そのために楽団も解散の危機に・・・
というのがドラマの大まかな流れ。
笠置シズ子とその楽団
「福来スズ子とその楽団」のモデルになったのは「笠置シズ子とその楽団」です。
松竹楽劇団の解散
日米開戦が近づくにつれて芸能関係への警察当局の規制は厳しくなりました。これは「警視庁令第2号・興行取締規則」によるものです。
昭和15年(1940)ごろから検閲が厳しくなり、公演の演目もチェックされ指導が入りました。
松竹楽劇団に所属している笠置シズ子も警察に呼ばれて注意を受けました。警察の指導は「婦徳を乱すのはダメ」という儒教的なもの。最初は曖昧なものでした。でもよくよく聞いてみると「付けまつ毛や動き回る派手な踊りなどが悪い3尺四方の中で歌え」ということになりました。
やがて招集で男性団員が減り編成を維持するのも難しくなりました。
もともと松竹楽劇団は松竹のメンツにかけて豪華な演出をしていたので経営的にも厳しくなります。もう劇団は維持できません。
昭和16年(1941)1月の公演を最後に松竹楽劇団は解散しました。
シズ子と楽団の設立
笠置シズ子は働き場所がなくなってしまいました。
自叙伝によると会社からは劇団の解散前には独立して活動するようにと勧められていたそうです。
楽団を退団した笠置シズ子は服部良一の協力で「笠置シズ子とその楽団」を結成。
笠置シズ子は当時の日本でジャズ的な歌が歌える数少ない歌手。日本でジャズを演奏できる人を集めるは難しかったと思いますが。服部良一が全面的に協力して楽団のメンバーを集めました。
中沢バンドのメンバー
「笠置シズ子とその楽団」は歌手の笠置シズ子と中沢寿士をリーダーにするバンド(中沢バンド)からなっています。
中沢寿士(なかざわひさし)
楽団リーダー。トロンボーン。服部良一とも親しい人物。
中沢寿士は戦後も音楽の世界で活躍。日本のバッグバンドジャズの草分けになった人物です。
他にも、
森享(トロンボーン)、
清水秀雄、奥野繁(トランペット)
中野房次郎、熊田光晴(アルトサックス)
松野国照(テナーサックス)
駒形政次(ピアノ)
伊藤豊作(ベース)
浜田実(ドラム)
が所属。
そして
淡谷のり子の紹介で中島信がマネージャーになりました。
中沢バンドは笠置シズ子のバックで演奏するだけなく、当時人気のあったジャズ「シング・シング・シング」などの曲を演奏しました。歌と曲が両方楽しめるバンドでした。
「笠置シズ子とその楽団」は当時の劇団には珍しい歌い手と演奏家が対等な立場の楽団でした。歌手は演奏に合わせて決められたとおりに歌うのではなく、ときには歌い手と演奏家がやりとりしてアドリブ的な楽しさを求めることもあります。シズ子の音楽は自由なのです。松竹楽劇団で学んだアメリカ的なショーの要素かもしれませんし、笠置シズ子にとっては大阪的な「かけあい」を音楽にとりいれているのかもしれません。
昭和17年にはリーダーの中沢寿士が招集され。松野がリーダーになり。その後には奥野がリーダーを務めました。
楽団の活動内容
シズ子はヒット曲「ラッパと娘」「センチメンタルダイナ」の他。「美しのアルゼンチナ」、「ペニー・セレナーデ」「セントルイス・ブルース」など外国の歌もレパートリーにしていました。
服部良一は他にも楽団をたちあげたシズ子のために「大空の弟」「アイレ可愛や」などの曲を作りました。
旗揚げ後には服部良一の提案で淡谷のり子との合同コンサートが開かれました。
昭和16年(1941)12月に太平洋戦争が始まりました。
でも戦争が始まっても芸能界の音楽活動は続けられていました。
ドイツやイタリアが同盟国だったので西洋の音楽すべてが否定されたわけではありません。ダンス音楽や「軽音楽」と呼ばれた西洋由来の音楽は人々に普及していきました。都市部でも音楽会が開かれています。
昭和19年(1944)ごろから空襲が激しくなると大劇場も閉鎖されますが。それまでは音楽活動は続いていたのです。
でも笠置シズ子はその流れには乗れませんでした。
「敵性音楽」として弾圧を受ける笠置シズ子の活動
シズ子とその楽団は最初は東京での活動ができたものの。日米開戦後の昭和17年(1947年)ごろからアメリカ的なものははっきりと敵と言われるようになり。笠置シズ子の歌は「敵性音楽」として批判され、警察当局の取締をうけました。
でも笠置シズ子の敵は警察当局の取り締まりだけではありません。
笠置シズ子の歌はそれまでの日本にはない斬新すぎる歌でした。そのためシズ子の歌と踊りを理解できない人は以前からいました。理解できないものをバッシングするのは今も昔も同じ。
太平洋戦争が始まる前からシヅ子の歌を「退廃的・堕落している・不真面目・邪道」と批判する人々はいました。この時代にも批判好きなマスコミや「自主警察」はいますし、一般市民のふりをした活動家もいます。
そういった民衆の中にいる「アンチ笠置」「反米主義者」はクレームをつけ、警察に訴え。笠置シズ子やジャズの活動をやめさせようとしていました。
アメリカ発祥で陽気なジャズを得意にしていた笠置シズ子は批判の的になり、他のどの歌手よりもダメージが大きかったのです。
笠置シズ子は東京での活動ができなくなり、地方巡業を行い、映画館で開かれる軽音楽会や工場の慰問活動に参加しました。でも当局からの印象がよくない笠置シズ子は慰問活動への依頼はあまりなく。地方劇場での軽音楽会が多かったようです。
また地方ではジャズやアメリカ的な音楽に馴染みのない人も多く、どこでもいいというわけにはいかなかったようです。西洋的な音楽が好きな人が多くいる地方都市での活動が多くなりました。
戦争が激しくなるとアメリカ製の歌はもちろん、「ラッパと娘」「センチメンタルダイナ」など松竹時代のヒット曲も歌えなくなり。「大空の弟」「真珠湾攻撃」など戦時色が強いものや、南の海をイメージした「アイレ可愛や」などを中心に歌いました。
中沢バンドもジャズの演奏ができなくなり、クラシックをアレンジしたものを演奏しました。
バンド活動の終わり
昭和18年(1943)。名古屋の巡業先で吉本頴右(よしもと えいすけ)と出会います。
戦争が激しくなるとメンバーが減り。規制も強くなって演奏できる曲目も減っていきました。
妥協を許さないシズ子は楽団員と激しく意見をかわすこともあったようです。
笠置シズ子は得意な歌のジャンルは多くありません。シズ子にとっては得意な音楽やダンスができずに憂鬱な日々が続きました。
昭和19年(1944)。マネージャーの中島信が笠置シズ子に無断である興行会社にバンドを売ってしまいました。理由はよくわかりませんが、笠置シズ子は自叙伝の中で「お金に困った中島信が売ったのだろう」と回想しています。
これに懲りたシズ子はこれ以後、自前のバンドを持とうとはしませんでした。
バンドを失った笠置シズ子は音楽活動ができなくなってしまいました。
このころ服部良一は上海で活動していたので頼ることはできません。そこで吉本興業の助けをかりて各地の劇場を渡り歩き公演を行いました。
昭和20年(1945)には京都での巡業中に家が全焼。吉本頴右とともに知人の家で暮らし終戦を迎えることになります。
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