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らんまん:寿恵子のモデル 牧野寿衛子が経営したお店「待合茶屋いまむら」とは

らんまん

槙野寿恵子(まきの すえこ)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは浜辺 美波さん。

ドラマ第22週「オーギョーチ」では寿恵子は叔母のみえから商売を始めないかと誘われ。第23週「ヤマモモ」では寿恵子は万太郎の夢を叶えるために出店の準備、開店します。

実は槙野寿恵子モデルになった牧野寿衛子も自分で待合茶屋(まちあいちゃや)を経営して牧野家の家計を救ったことがあります。

牧野寿衛子の経営した待合茶屋とはいったいどういうお店だったのか紹介します。

 

目次

牧野寿衛子 待合茶屋を開く

牧野富太郎が東大の講師をしていたころ。苦しい牧野家の家計をなんとかしようと寿衛子は待合茶屋をはじめました。

江戸時代や明治までの渋谷はまだド田舎でした。でも明治になって駅が出来て人が増え。花街も出来ました。荒木山に料理屋、芸妓置屋、待合が増えていました。さらに世田谷に陸軍の兵隊宿舎ができて更に花街がにぎやかになりました。

寿衛子は渋谷の花街、丸山町で一軒家を借りて料理屋を始めました。名前は「いまむら」です。寿衛子の実家の別姓だといいます。寿衛子の旧姓は小澤ですから、母方の姓なのでしょう。

主婦がいきなり店を出すのは大変なことです。なぜ寿衛子が花街に店を出すことが出来たのかはよく分かっていません。何かの縁というか人脈があったのだと思われますが、それがなんなのかはわかりません。

寿衛子の母あいは芸妓置屋をしていました。母の縁者が協力してくれたのかも知れません。

NHK朝ドラ「らんまん」では母の妹が料理屋を営んでいて、その縁で知り合った岩崎弥之助の知人が持っていた家を買い取るという設定になっています。

大原富枝の小説「草を褥(しとね)に」では母の芸者時代の知人が誘ってくれて店に勤務。その後、寿衛子が店を出すという設定です。「草を褥に」は小説ですが、牧野富太郎の生涯の妻・寿衛子と最初の妻・猶について詳しく調べて書かれれています。それでも寿衛子が商売を始めた経緯は作家の空想に頼らないといけないほど情報がありません。

余談ですがネットでは「牧野富太郎は重婚」などとスキャンダラスに面白おかしく書かれています。当時の人間関係は複雑で、よく調べると現代人の考える重婚とはいえません。一部の情報だけを抜き取って現代の価値観を押し付けて興味本位で面白おかしく書き立てるネットメディアには違和感を感じます。牧野富太郎を重婚だというなら西郷隆盛や渋沢栄一だって重婚です。

待合茶屋とは

寿衛子が営んだのは「待合茶屋」とか「待ち合い」と呼ばれる店でした。待合茶屋とはいったいどんな商売でしょうか?

待合茶屋や待合(まちあい)はその名の通り。人と人が会うために利用する料理屋。政治家や金持ちが接待や会合に使う料亭です。

世間では男女が密会するために利用する店と思っていた人もいるようですが。そうではありません。政治家や経済界の人たちが利用する店です。

明治から大正時代にはこういう店が流行りました。昭和になってもありました。

 

繁盛した寿衛子の店「いまむら」

寿衛子の母あいは京都で人気の芸者、芸妓置屋を営んでいたこともありますそれも影響しているのでしょうか。寿衛子の「いまむら」は繁盛しました。

寿衛子は美人で客の対応も上手ったのでたちまち店は評判になりました。

もともと寿衛子は借金取り相手に交渉したり、家は貧しいのに牧野の教え子を家に誘って夕食をごちそうしたりしていました。話術や人の扱いが上手です。

もしかすると人気芸姑の母の血を受け継いでいるのかもしれません。

そうした寿衛子の努力のお陰で牧野家も経済的な余裕も生まれました。

ちなみに牧野富太郎は経営には関わっていません。経済感覚ゼロ(むしろマイナス)の富太郎が経営に関わっていないのもお店が成功した理由のひとつでしょう。

「いまむら」は大正12年の関東大震災でも大きな被害を受けずに営業を続けることができました。被害の大きかった東京市内と違い、「いまむら」のあった渋谷周辺は比較的被害が少ない地域だったのです。

 

誹謗中傷を受ける

ところが寿衛子の店が繁盛すると思わぬところから邪魔が入りました。

牧野富太郎が努めている東京帝国大学の教授たちです。

「東京帝国大学の講師の夫人が待合などといういかがわしい店を営んでいるのはけしからん」という意見が出たのです。

世間では「待合」は「男女があいびきする怪しげな店」という誤解が広まっていました。お堅い東大の先生方は講師の妻が水商売するなんて!と牧野富太郎へ怒りと軽蔑が向けられたのでした。

牧野富太郎の自叙伝では理学部部長の五島清太郎は牧野の事情は理解してくれたとはいうものの。経営からは手を引いたほうがいいのではと助言をうけたようです。

でも牧野富太郎は教授達や世間の誹謗中傷があったからといって寿衛子に店を辞めさせるつもりはありませんでした。

でも問題はそれだけではありませんでした。

閉店

大正も終わりごろになると景気も悪くなりつつありました。怪しい客も来るようになりましたし、ツケを払わない客もでるようになります。徐々に稼げなくなりつつありました。

寿衛子はこの辺が潮時と感じると店を売却しました。寿衛子は見切りをつけるセンスは抜群だったようです。

「いまむら」は人気店だったので買い手を見つけるのは難しいことではなかったようです。寿衛子はまとまったお金を手にしました。

そして寿衛子は「都会では火事が多いので標本が燃えてしまう」ので火事の起きにくい田舎に一軒家を建てようと考え。東京府下北豊郡大泉村(東京都練馬区大泉)の雑木林を買って本当に家を建ててしまいます。小さいですが牧野の研究用の部屋と標本室を備えた家でした。

昭和3年(1928年)1月。しかし家ができてまもなく寿衛子は入院。その1ヶ月後、寿衛子は大学の青山外科で亡くなりました。享年55歳。

 

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