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らんまん:伊藤孝光のモデル・伊藤篤太郎は植物学者

らんまんアイキャッチ

伊藤孝光(いとう たかみつ)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは落合モトキさん。

伝説の本草学者 伊藤圭介(いとう けいすけ)の孫で植物学者。東京に来た槙野万太郎と出会います。

伊藤圭介は実在する学者です。

なので伊藤孝光のモデルは 伊藤圭介の孫で植物学者だった伊藤篤太郎(いとう とくたろう)ですね。植物学者の矢田部良吉教授とも因縁のある人物です。

ドラマ「らんまん」の伊藤孝光とモデルになった人物を紹介します。

 

目次

ドラマ「らんまん」の伊藤孝光(いとう たかみつ)とは

伊藤孝光(いとう たかみつ)

万太郎たちとおなじ若い世代の植物学者。
江戸時代の伝説の本草学者 伊藤圭介の孫。
伊藤圭介は有名な本草学者でシーボルトを手伝って動植物の標本を集めるのに協力していました。

博物局の里中のところで槙野万太郎と出会います。戸隠草を巡って田邊教授とは因縁があり。東大や田邊教授にいい印象はもっていません。

 

演:落合モトキ
NHK朝の連続テレビ小説、こころ、あまちゃん、らんまん

 

朝ドラ初出演。

モデルは伊藤篤太郎(いとう とくたろう)

伊藤篤太郎(いとう とくたろう)は

1866年1月15日(慶応元年11月29日)。尾張国で生まれました。

父は伊藤延吉。
中野延吉は江戸時代を代表する本草学者 伊藤圭介の弟子。圭介の娘と結婚。伊藤延吉と名乗ります。

母は伊藤小春
本草学者 伊藤圭介の娘です。

1872年。東京で祖父伊藤圭介のもとで植物学を学び。

1884年から私費でイギリスのケンブリッジ大学など留学しました。

1887年。帰国。
その後は東京府尋常中学校、愛知県尋常中学校、鹿児島高等中学造士館で教師を務めました。

鹿児島時代は南西諸島の植物を採取。後に松村任三と「琉球植物説(1899)」を発表しました。

破門草事件

伊藤篤太郎の出来事で有名なのが破門草事件です。トガクシソウの学名を巡って矢田部良吉との間に起きた事件です。

日本で植物学が始まったころ。日本国内の植物学者は自分で学名をつけることが出来ませんでした。見つかったものが新種かどうか大量の標本と比べないといけないからです。そこで外国にサンプルを送って確認してもらっていました。日本の植物学者が頼っていたのがロシアのカール・ヨハン・マキシモヴィッチ博士です。

当時、ロシアのサンクトペテルブルクには東アジア地域の大量の植物標本がありました。日本でサンクトペテルブルクまで送って鑑定してもらうので時間がかかります。その間に行き違いも起こります。

東大の植物学教室教授・矢田部良吉は1884年(明治17年)に戸隠山でトガクシソウを採集。小石川植物園で育てて花を咲かせ、学名を付けてもらおうとロシアの植物学者マキシモヴィッチに送りました。

マキシモヴィッチはメギ科の新属だと認め「ヤタベア ジャポニカ」という学名を付けようと思うが調査が必要なのでさらにサンプルを送るように」と矢田部良吉に連絡しました。

マキシモヴィッチはいちどロシアの雑誌にメギ科ミヤオソウ属の植物として「ポドフィルム・ジャポニクム」という名前で発表していました。でも、その後の調査でトガクシソウが新しい属だとわかりそれに矢田部の名前が付きそうになったのです。

一方。伊藤篤太郎は当時、東京大学植物学教室に出入りを許された植物学者でした。伊藤篤太郎は大久保三郎からトガクシソウの新しい属名に矢田部の名前が付きそうだと知ります。

でも矢田部より先に伊藤篤太郎の叔父・伊藤謙が1875年(明治8年)にトガクシソウを戸隠山で採集していました。伊藤篤太郎としては矢田部教授に先を越されたくありません。

1888年(明治21年)10月。伊藤はイギリスの植物学雑誌に新しい属を「ランザニア属」と名付け、「ポドフィルム・ジャポニクム」を「ランザニア・ジャポニカ」の学名にするよう発表。伊藤の案が採用されました。

すると矢田部は激怒。伊藤篤太郎を植物学教室に出入り禁止にしてしまいます。

そのためトガクシソウは「破門草」ともよばれます。

この事件は牧野富太郎にも深い印象を残しました。

日本初の植物の学名の名付け親

このとき伊藤が名付けた学名「ポドフィルム・ジャポニクム」が日本人が初めてつけた学名です。

なんと伊藤篤太郎は日本で最初に学名を付けた人物でした。でもすでに見つかっていた物を分類し直して名前をつけ直したもの。自分で新種を発見して名前を付けたのは牧野富太郎が日本初です。

 

その後の伊藤篤太郎

1896年 造士館が閉鎖。

その後は愛知県立第一中学校で教師になりました。

1897~1898年。「錦窠翁九十賀寿博物会誌」「理学博士伊藤圭介翁小伝」の編集、執筆を行い祖父・伊藤圭介の功績を残す活動をしました。他にも博物学関係の書籍を執筆。

1921年。東北帝国大学に生物学科が開設。講師になりました。

1941年(昭和16年)3月21日死去。享年75歳。

著書に「大日本植物図彙」などがあります。

伊藤篤太郎は東大の学生でも教職員でもありませんが。矢田部良吉教授によって出入りを認められ。研究を行っていました。しかし矢田部良吉とトラブルになって出入り禁止になってしまいうなど牧野富太郎と共通点のある人物です。

 

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