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らんまん:波多野 泰久(はたの やすひさ)のモデルは牧野富太郎の親友・池野成一郎

らんまんアイキャッチ

波多野 泰久(はたの やすひさ)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは前原 滉(まえはら こう)さん。

牧野富太郎が出入りするようになった東京大学植物学教室の2年生。

万太郎が東大で最初に親しくなった人物のひとりです。

波多野 泰久のモデルになった人物はいるのでしょうか?

います。それも二人いるのです。

一緒に植物学雑誌を作った東大生の染谷徳五郎と
植物学者で日本遺伝学の権威・池野成一郎です。

ドラマ「らんまん」の波多野 泰久とモデルになった人物を紹介します。

 

目次

ドラマ「らんまん」の波多野 泰久とは

名前:波多野 泰久(はたの やすひさ)
演:前原 滉(まえはら こう)
  NHK連続テレビ小説「まんぷく」等に出演。

東京大学 植物学科 2年生。
極度の近視でメガネをかけています。同級生の藤丸次郎と一緒に登場することが多いです。牧野万太郎が東京大学に来て最初に親しくなった人物の一人。

後に、牧野万太郎、藤丸次郎とともに植物学雑誌を作ります。

波多野 泰久のモデルは?

ドラマの波多野泰久が誰をモデルにしているのか公式発表はありません。

でも波多野 泰久のキャラ設定に影響を与えたと思われる人はいます。

それが染谷徳五郎と池野成一郎です。

染谷徳五郎

牧野富太郎と一緒に植物学雑誌を作った選科生。

選科生は東大に通う学生の一種。すべての科目を習うのが本科生に対して、一部の科目だけを習うのが選科生です。選科を卒業しても「学士号」はもらえません。そのため本科生よりも低く見られていますが。そのぶん入学の条件がゆるく設定(本科は旧制高等学校卒業、選科生は旧制中学校卒業の学力が必要)されています。編入試験に合格すれば本科に編入は可能です。

牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りできるようになったとき。植物学科の選科生に染谷徳五郎(そめや とくごろう)と田中延次郎(たなか のぶじろう)がいました。二人は牧野の下宿先にも遊びに行く中でした。3人で何度もすき焼きを食べています。

牧野富太郎は日本の植物研究の成果を世界に広めるためにも研究成果を発表できる機関誌が必要と考え。仲の良かった染谷徳五郎と田中(市川)延次郎に相談しました。二人とも牧野の意見に賛成。三人は何度か集まって雑誌の構想をねり、原稿を集めました。ある程度準備ができたところで東大植物学教室の矢田部教授に相談。矢田部も快く賛成。植物学会の機関誌にすることも決まりました。

そして明治20年(1887年)日本初の植物の学術雑誌「植物学雑誌」が発行されました。

最初の「植物学雑誌」では染谷徳五郎は「植物と蝶の関係」の記事を担当しました。

明治24年(1891年)には大久保三郎、斎田功太郎と共に初心者向けの植物学用語辞書「植物学字彙」』の執筆を行なっています。

ドラマでも万太郎と波多野泰久と藤丸次郎が植物学雑誌を作る場面があります。この場面の波多野泰久と藤丸次郎のモデルが染谷徳五郎と田中延次郎なのは間違いありません。

染谷徳五郎は東大を出た後は東京高等女学校の教師になりました。

もう一人、波多野泰久のモデルと思われる人物がいます。

池野成一郎

池野成一郎も東大の植物学教室を卒業した植物学者。

牧野富太郎も自叙伝の中で「親友」と呼ぶ人物です。

 1866年6月25日(慶応2年5月13日)生まれ。
堺奉行も務めた旗本 池野好謙の息子です。

池野成一郎は開成学校から帝国大学 理科大学(東京大学)の植物学科に入学。

植物学教室で牧野富太郎と知り合う

矢田部良吉教授のもとで植物学を学びました。当時は牧野富太郎が植物学教室に出入りしていました。

学生時代は牧野富太郎の下宿先に遊びに来るほど仲がよかったです。

牧野達とすき焼きを食べることもありました。東京郊外への植物採集にも一緒に行っています。

牧野富太郎が東京大学に出入り禁止になる

明治23年(1890年)。牧野富太郎が矢田部教授によって植物学教室に出入り禁止になりました。

植物学教室の学生たちも牧野には同情しました。とくに池野成一郎はそのしうちに憤りましたが、相手が教室で一番力のある教授ではどうにもなりません。池野成一郎は毎日のように牧野を訪ねて励ました。

やがて牧野はマキシモヴィッチ博士を頼ってロシアに行く決心をします。

でも池野成一郎はロシア行きの決心を変えさせようとしました。牧野はマキシモヴィッチ博士という人物にあこがれてロシアなら研究ができると信じていますが。当時のロシア帝国はそんな甘い国ではありません。皇帝と貴族・軍人が権力を振るう独裁国で国民に自由はありません。池野成一郎は牧野がロシアに行けば研究どころか生活もできなくなると考えました。

でも植物のことしか頭にない牧野には外国の事情が理解できません。池野成一郎の説得は牧野には届きませんでした。

明治24年(1891年)。年が開けてマキシモヴィッチ博士の病死が伝わり、幸か不幸か牧野のロシア行きはなくなりました。

池野成一郎は帝国大学 農科大学助教授になりました。そして池野成一郎と藤井健次郎は落胆している牧野富太郎を農科大学に誘いました。農科大学にはかつて一緒に植物学を学んだ白井助教授もいます。研究する場所くらいは提供できるということでした。

こうして池野成一郎や白井光太郎助教授の好意によって牧野富太郎は農科大学に出入りして研究を続けることになりました。

松村教授に追い出された牧野富太郎を助ける

その後、矢田部教授が帝国大学 理科大学(東大)を追い出され。松村任三教授が後任になり、牧野は植物学教室で「助手」として雇われることになりました。

後に牧野富太郎が松村任三教授と対立。助手を解雇されたことがありました。それを知った仲間たちは牧野を戻そうと運動を起こしました。

そのころ農科大学教授になっていた池野成一郎も熱心に牧野の復帰を呼びかけました。東大の桜井学長に直談判して牧野の必要性を認めさせ、牧野を助手よりも待遇の良い講師として雇うことになりました。

他にも池野成一郎は牧野が熱心に取り組んだ「日本植物誌」の発行にも協力しています。

英語、ドイツ、フランス語が堪能

池野成一郎は語学が得意で特に英語、ドイツ、フランス語が堪能でした。外国語の論文も書いています。

牧野富太郎は英語は読めますが、フランス語やドイツ語には苦戦しました。そんなときは池野成一郎に助けてもらいました。牧野富太郎は英語の論文を書くときは最後に池野成一郎がチェックをして立派な文章に直してもらいました。

池野成一郎は東大を卒業後は牧野と一緒に研究することはなく、友人として付き合っていましたが。様々な場面で牧野を支えました。

ローマ字普及に力を入れていた矢田部良吉教授の影響なのか。池野成一郎もローマ字を使っていました。

 

植物学者としての功績

池野成一郎は有能な植物学者です。平瀬作五郎のイチョウの研究を助け、明治29年(1896年)に平瀬はイチョウの精子を発見しました。池野成一郎もソテツを研究してソテツの精子を発見しました。この発見は世界の植物学者に衝撃を与えました。

明治39年(1906年)。ドイツ、フランスに留学。その後、戻ってきて農科大学教授になりました。

明治45年(1912年)に帝国学士院恩賜賞を受賞しました。このとき最初は池野成一郎だけが受賞の予定でしたが、池野成一郎は「平瀬が受賞しないなら私は受けない」と言って、池野成一郎と平瀬作五郎が受賞することになりました。

遺伝学の先駆者

池野成一郎は細胞レベルの研究を進めていました。当時の顕微鏡はアーク燈を使用していたため、目を痛めてしまい。視力を悪くしてしまいました。

他にも育種学、遺伝学を研究。オオバコ属やヤナギ属になど違う種類の植物をかけあわせて、どのような植物ができるのか研究しました。日本の遺伝学の先駆者とも言える存在で日本遺伝学会の初代会長になりました。

昭和18年(1943年)10月4日。死去。

 

らんまんの波多野泰久は染谷徳五郎と池野成一郎を足したような人物です。一緒に植物学雑誌を作るところは染谷徳五郎に。極度の近視で植物の掛け合わせに興味があるところ、大学教授になるところは池野成一郎に似ています。

 

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