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らんまん:大窪 昭三郎のモデル・大久保三郎とは

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大窪 昭三郎(おおくぼ しょうざぶろう)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

大窪 昭三郎(おおくぼ しょうざぶろう)は東京大学植物学教室の助教授。教授の田邊彰久のもとで働いています。

松村任三とともに小学校中退の牧野富太郎が出入りするのを反対しました。

演じるの今野 浩喜さん。

大窪 昭三郎のモデルになったのは大久保 三郎という植物学者です。

ドラマ「らんまん」大窪 昭三郎のモデルになった大久保 三郎を紹介します。

 

目次

ドラマ「らんまん」の大窪 昭三郎とは

大窪 昭三郎(おおくぼ しょうざぶろう)

 演 :今野 浩喜(こんの ひろき)
 お笑い芸人。元キングオブコメディ
 最近は俳優業が多くなっています。
 アイフルのCM。大地真央さんが凛とした女将を演じるシリーズで「板長今野 」役で登場。

大窪 昭三郎は東京大学植物学教室の講師です。

田邊彰久教授のもとで働いています。小学校中退の万太郎に偏見をもち、徳永 政市とともに万太郎が植物学教室に出入りするのを反対しました。

田邊教授が万太郎を快く迎えたのもショックで、気に入りません。

万太郎たちが作る植物雑誌は最初はなかなか協力が得られませんでしたが。田邊教授が賛成。植物学会の機関誌にすることが決定。植物学会の事務局を務める大窪も雑誌作りに協力。創刊号の巻頭の挨拶を書くことになりました。その後も植物雑誌に関わることになります。

後に万太郎と一緒に新種ヤマトグサの発見に関わることになります。

 

大窪 昭三郎のモデル 大久保 三郎とは

大窪 昭三郎のモデルになったのは大久保 三郎という植物学者です。

大久保 三郎(おおくぼ さむろう)は1857年6月14日(安政4年5月23日)生まれ。旗本で明治維新後は東京府知事になった子爵・大久保一翁の息子です。大久保一翁は同じ幕臣の勝新太郎とも交流がありました。

1871年(明治4年)。アメリカ合衆国のミシガン大学に留学。植物学を学びました。その後、イギリスに留学。帰国後は内務省に勤務しました。その後は東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調を務め、伊豆諸島、小笠原諸島の植物の研究を行いました。

矢田部教授のもとで植物の研究を行う

1878年(明治11年)。矢田部良吉と生物学科の主任モースが中心になって東京生物学会が発足。

1882年(明治15年)。大久保 三郎や松村任三たちの働きで東京生物学学会から東京植物学学会が独立。矢田部良吉を会長にして活動を開始しました。このとき大久保 三郎を支えたのが市川延次郎だったといいます。

しかし独立したばかりの東京植物学学会の活動は停滞気味で生物学会に吸収されそうになりました。そこで矢田部良吉を中心に松村任三と大久保三郎が幹事になって植物学会の活動は盛り返しました。

1883年(明治16年)助教授に昇進。矢田部良吉のもとで働き。矢田部を補佐して標本施設拡充に貢献した。

1884年(明治17年)牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りするようになりました。

1887年(明治20年)。伊豆諸島を調査。

一時はつぶれそうになった植物学会でしたが。矢田部良吉、松村任三、大久保三郎の活動で息をふきかえし独自に植物学会の雑誌を発行できるようになりました。

また、このころ牧野富太郎たちが植物雑誌を計画。矢田部良吉の許可で牧野富太郎たちが作った雑誌を元に矢田部良吉の手が加えられ。植物学会の雑誌が創刊されました。

大久保三郎も学会誌の発行に貢献。創刊号に巻頭の「本会略史」と「まめづたらん」の記事を書きました。他にも雑誌の記事を幾つか書いています。

 

牧野富太郎とともにヤマトグサを発見

1887年(明治20年)。牧野富太郎は採取した植物に「ヤマトグサ」の和名を付けて「植物学雑誌」に発表。このとき大久保三郎との連名で発表しています。

1889年(明治22年)。「植物学雑誌」に牧野富太郎とともに「ヤマトグサ」の学名:Theligonum japonica Okubo et Makino を発表。日本人が発見した新種に日本人が学名を付けたのはこれが最初です。

1891年(明治24年)。斎田功太郎、染谷徳五郎とともに初心者向けの植物学用語辞書「植物学字彙」を書きました。

東大を解雇される

1892年(明治25年)。東大教授 矢田部良吉が解雇されました。
矢田部良吉が解雇された理由は諸説あります。もともとかなりの西洋崇拝者で気性も激しく容赦なく批判するため、各方面に敵を作りやすかったのです。そうして支持を失い最終的には東大総長 菊池大麓、動物学教授 箕作佳吉との東大内部での争いに負けました。

ちなみに箕作佳吉は牧野富太郎を高く評価していました。矢田部良吉が東大を去った後、牧野富太郎が東大に呼ばれたのは箕作佳吉の好意によるものだといわれます。

矢田部良吉が東大を去った後。矢田部と親しい人達は東大を去りました。大久保三郎も矢田部との関係で東大を去ったと考えられます。

 

残りの人生は教育者として生きる

その後。1895年(明治28年)に高等師範学校の教授になりました。中学用の植物学教科書の編集などを行いましたが以後は教育者としての活動が中心になり、論文を書くこともなくなりました。

1914年(大正3年)5月23日に死去。

オオクボシダの「オオクボ」は大久保三郎に因んで命名されました。

 

 

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