MENU

らんまん:藤丸次郎(ふじまる じろう)のモデルはいる?

らんまんアイキャッチ

藤丸次郎(ふじまる じろう)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

演じるのは前原瑞樹(まえはら みずき)さん。

牧野富太郎が出入りするようになった東京大学植物学教室の2年生。

万太郎が東大で最初に親しくなった人物のひとりです。

藤丸次郎のモデルになった人物はいるのでしょうか?

ドラマ「らんまん」の藤丸次郎とモデルになった人物を紹介します。

目次

ドラマ「らんまん」の藤丸次郎とは

名前:藤丸次郎(ふじまる じろう)
演:前原瑞樹(まえはら みずき)
  NHK連続テレビ小説「ひよっこ」等に出演。

東京大学 植物学科 2年生。

酒屋の息子。
英語が苦手。牧野万太郎が東京大学に来て最初に親しくなった人物の一人。うさぎの世話をしています。最初は外から来た万太郎に心を開きませんでしたが、すぐにうちとけます。

後に、牧野万太郎、波多野泰久とともに植物学雑誌を作ります。

でも研究者生活になじめず、東大を辞めようと万太郎に相談する場面もあります。

 

藤丸次郎のモデルは?

ドラマの藤丸次郎が誰をモデルにしているのか公式発表はありません。

でも藤丸次郎のキャラ設定に影響を与えたと思われる人はいます。

それが田中延次郎と藤井健次郎です。

田中延次郎(たなか のぶじろう)

田中 延次郎 (たなか のぶじろう)旧姓 市川。

市川延次郎は1864年4月21日(元治元年3月16日)江戸・千住南組の酒問屋に生まれました。

東京帝国大学理科大学植物学科に入学。当時植物学教室に出入りしていた牧野富太郎と親しくなりました。

牧野富太郎たちとともに植物学雑誌を発行

染谷徳五郎とともに牧野の下宿先にも遊びに行ってました。牧野富太郎たちも田中の実家の酒屋に集まって食事をすることもあったようです。

牧野富太郎は日本の植物研究の成果を世界に広めるために機関誌が必要と考え。仲の良かった染谷徳五郎と田中(市川)延次郎に相談しました。二人とも牧野の意見に賛成。三人は何度か集まって雑誌の構想をねり、原稿を集めました。ある程度準備ができたところで東大植物学教室の矢田部教授に相談。矢田部も快く賛成。植物学会の機関誌にすることも決まりました。

そして明治20年(1887年)日本初の植物の学術雑誌「植物学雑誌」が発行されました。

最初の「植物学雑誌」では田中延次郎は「すっぽんたけの生長」を担当しました。他にもキノコ類の論文を発表。日本人による菌類の新種の初記載論文とされ。後にイギリスの雑誌にも載りました。その後も菌類の論文を発表しました。

菌類研究を進めるも

1889年。田中長嶺と共に「日本菌類図説」を出版しました。

1892年から名古屋の愛知県桑樹萎縮病試験委員などを務めました。
1897年にはドイツのミュンヘン大学に私費留学。酵母の研究などをしました。
1898~1899年。東京帝国大学理科大学の講師を務めました。

しかし1903年。桑樹萎縮病調査会が廃止になると就職先がなくやがて精神病を患ってしまいます。

 1905年(明治38年)6月21日。精神病院で死去しました。

藤井健次郎

もう一人、藤丸次郎のモデルになったと思われる人がいます。

それが植物学者・遺伝学者の藤井健次郎です。

慶応2年10月5日(1866年11月11日)。加賀藩士の家に生れました。

東京帝国大学理科大学生物学科に入学。同年代の学生には池野成一郎などがいます。

矢田部教授に追い出された牧野富太郎を励ます

明治23年(1890年)。牧野富太郎が矢田部教授によって植物学教室に出入り禁止になりました。牧野はマキシモヴィッチ博士を頼ってロシアに行く決心をしますが、マキシモヴィッチ博士は病死。ロシア行きはなくなりました。

藤井健次郎と池野成一郎は落胆する牧野を励ましました。当時、農科大学には彼らと親交のある白井光太郎助教授がいました。そこで藤井健次郎と池野成一郎は農科大学に身を寄せるのを勧めます。こうして池野成一郎や白井光太郎助教授の好意によって牧野富太郎は農科大学に出入りして研究を続けることになりました。

人材育成に熱心

明治25(1892)年、東京帝国大学理科大学生物学科卒業。卒業後は理科大学の植物学教室で助手や助教授として働きました。学生の指導に熱心で中等教育教科書の編纂を行いました。

その一方で自分の研究を論文にするには不熱心でした。

明治34(1901年)。ドイツ、イギリスに留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学びました。

明治44(1911年)。東京帝国大学教授になりました。

大正7年(1918年)。大阪の実業家・野村徳七兄弟の援助で小石川植物園内で「細胞学を基礎とする遺伝学講座」を開催。助手はアメリカ留学から戻った保井コノが務めました。その講座の中から遺伝学者の篠遠喜人、染色体研究者の桑田義備、キク属研究者の田原正人、ハス研究者の大賀一郎たちが育ちました。

1923年ごろ。徳川生物学研究所の評議員になりました。

細胞学・分子生物学の分野で活躍

昭和元年(1926年)。細胞の染色体が二重螺旋構造なのを発見しました。

昭和2年(1927年)。定年のため東京帝国大学を退官。退官後も死去まで植物学教室で研究を続けました。

昭和4年(1929年)。和田薫幸会の援助をうけて国際細胞学雑誌「キトロギア」を創刊。藤井健次郎とは初代編集長になりました。キトロギアは遺伝子や細胞内の分子の働き(分子生物学)等を研究した論文が載せられています。日本初の欧文専門雑誌です。

戦時中も欧文で発行が続けられました。藤井健次郎は疎開しながら東京に通いました。キトロギアは現代でも発行が続いています。

昭和25年(1950年)。遺伝学への貢献とキトロギア発行の功績が認められて文化勲章を受章しました。

昭和27年(1952年)。死去。

遺伝子研究に大きく貢献した人物です。「遺伝子」という言葉を翻訳して最初に使ったのも藤井健次郎です。

 

 

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次