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虎に翼:多岐川幸四郎のモデル 宇田川潤四郎は家庭裁判所の父

虎に翼

多岐川幸四郎(たきがわ こうしろう)は NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」の登場人物。

演じるのは滝藤賢一さん。

多岐川幸四郎はヒロイン 佐田(猪爪)寅子の上司になる人物。

猪爪 寅子のモデルは日本初の女性弁護士・三淵嘉子。

多岐川幸四郎のモデルになったのは家庭裁判所の設立で中心になった宇田川潤四郎。

ドラマ「虎に翼」の 多岐川幸四郎とはどのような人物でしょうか。
多岐川幸四郎のモデルになった宇田川潤四郎について紹介します。

目次

ドラマ「虎に翼」の多岐川幸四郎とは

名前:多岐川幸四郎(たきがわ こうしろう)
演: 滝藤賢一

家庭裁判所設立準備室に配属になった寅子の上司。

ちょび髭が特徴的。変わり者の多岐川幸四郎ですが 汐見圭や佐田寅子たちとともに家庭裁判所の設立を目指して奮闘します。

喜怒哀楽が激しく、何を考えているのか分かりません。寅子たちスタッフを前にいきなり「愛の裁判所」と宣言したりとかなりの変わり者ですが。寅子の人生に大きな影響を与えます。

 

多岐川幸四郎のモデルは宇田川潤四郎

多岐川幸四郎(たきがわ こうしろう)のモデルと思われるのは名前や立場などから判断して宇田川潤四郎(うだがわじゅんしろう)に間違いないでしょう。

宇田川潤四郎は裁判官。初代最高裁家庭局長で家庭裁判所の設立に尽力しました。

ちょび髭で喜怒哀楽の大きい人物。嬉しいことや悲しいことがあるとオーバーなりアクションをとり人からも好かれる陽気な人物だったようです。

宇田川潤四郎は明治40年。東京で生まれました。

昭和4年。早稲田大学を卒業。

高等試験に合格して裁判官になりました。

戦前は満洲で裁判官

31歳のとき満洲に赴任。新京地方院の裁判官になりました。

その後、司法教育機関の教官になり満洲の人々に法律を教えました。学生たちを家によんで一緒に食事をすることも多く、現地の学生たちから「先生」と呼ばれ慕われていました。

ところが敗戦。満洲にソ連軍がなだれ込んできました。宇田川はソ連軍から戦争犯罪人として指名手配されますが、学生たちがソ連軍の情報を教えてくれたので逃げることができました。

戦後は戦災孤児の救済に尽力

昭和21年(1946年)8月。宇田川は一家5人で日本に戻ってきました。

日本に戻ってきた街をさまよう戦災孤児たちの姿にショックを受けます。行くあてのない孤児たちの中には犯罪に手を染める者も多く、宇田川は彼らを救いたいを考えるようになりました。

宇田川は京都少年審判所の所長になりました。

宇田川は徳武義とともに大学に足を運び、「京都少年保護学生連盟」を組織。日本初のBBS(少年の更生を目的にしたボランティア団体)組織といわれます。

宇治にあった旧日本軍の施設を利用して宇治少年院を作りました。ひとりの裁判官が少年院を設立するのはそうとうな苦労があったことでしょう。

家庭裁判所の設立

昭和24年。家庭裁判所が設立されることになりました。そして全国の家裁をまとめる部署として最高裁・家庭局が設置されます。

宇田川は審判所の活動が評価されて最高裁の初代・家庭局長に任命されました。

とはいっても、家庭裁判所の建物はありませんし具体的な内容はこれから。家庭局は最高裁の一室を借りて活動を行っていました。

宇田川は若いスタップたちともに家庭裁判所の始動に向けて動き出しました。このとき家庭局事務官として家庭裁判所の設立業務に関わったのが三淵(和田)嘉子です。

最高裁の中には新しくできたばかりの家庭局が様々な活動を行うのを快く思わない人もいました。宇田川は冷たい目で見られていましたが。熱心に活動を行います。でも最高裁にも宇田川に協力する人もいました。それが最高裁長官の三淵忠彦と最高裁秘書課長の内藤頼博でした。

家裁の五原則

宇田川はまず方針として家裁の五原則を発表。

家庭裁判所は「独立的・民主的・科学的・教育的・社会的」なものだと主張。この五原則が家庭裁判所の基本的な方針になりました。

話を聞くのは好きだが議論は苦手?

宇田川は若いスタッフたちがアイデアを出し合って議論するのを喜びました。ところが細かい法律の議論は苦手。会議が始まると居眠りしてしまうこともありました。

宇田川の在任期間は8年。その間に様々な制度がつくられ、調査官制度の創設。医務室の設置などが行われました。

家庭に光を 少年に愛を

宇田川はアイデアマンで家裁創設記念にポスターを作り「家庭に光を 少年に愛を」の標語を作りました。

その後、三淵嘉子が「法律のひろば」という雑誌に「愛の裁判所」と書いて家庭裁判所を紹介。このとき宇田川の「家庭に光を 少年に愛を」のキャッチフレーズを引用。家庭裁判所がどういうものなのかを世間に広めようとしました。宇田川の情熱は三淵嘉子に大きな影響を与えたようです。

 

昭和44年(1969年)。東京家庭裁判所の所長などを務めました。東京家庭には三淵嘉子もいました。

当時は少年犯罪が多く所長の宇田川も少年審判部を担当するほどでした。

少年法の引き下げに反対

少年犯罪の多さに世間では厳しい目が向けられ。法制審議会で少年法の引き下げが検討され始めました。

当時の成人年齢は20歳。それを18歳に引き下げようというのです。そうすることで18、19歳を20歳以上の犯罪者と同じ扱いにしようというのです。

成人年齢が18歳に引き下げられると18、19歳の人たちが事件を起こした場合、家庭裁判所では扱えなくなってしまいます。それを知った宇田川は現場の事情を知らない役人の勝手な机上論と猛反対。

しかしこのころ宇田川は発熱と下痢に悩まされていました。でも病院には行かず仕事を優先しました。病は直腸癌でした。2度の手術で体は衰弱。それでも家庭裁判所の創設以来の危機だと考え、仕事に打ち込みました。

昭和45年(1970年)。宇田川の名前で「少年法改正問題について」という題名の上申書を最高裁に提出。しかしこれが宇田川の最後の仕事になりました。宇田川の名前で出されていますが、作成の作業には三淵嘉子たちも関わっています。

法制審議会が行われる直前、宇田川は法制審議会の委員に選ばれた三淵嘉子と幹事の糟谷忠生を呼んで「自分は少年法改正のこと、家庭裁判所の将来が心配だ。あとを頼む」といいいました。

そしてその10日後。宇田川は息をひきとります。享年63歳。

その後。三淵嘉子や糟谷忠生も出席した法制審議会では6年近い議論が行われ。検察の権限の拡大が認めれたのの、年齢の引き下げそのものは見送られる事になります。

最高裁の立ち上げと整備に情熱を傾け宇田川の意思は三淵嘉子や糟谷忠生たちに引き継がれたのでした。

 

 

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