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らんまん:田邊彰久のモデル 矢田部良吉は日本植物学の創始者

らんまんアイキャッチ

田邊彰久(たなべ あきひさ)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。

田邊彰久は東京大学植物学教室の初代教授。高知からやってきた牧野富太郎をこころよく迎えてくれます。

演じるのは要 潤(かなめじゅん)さん。

田邊彰久のモデルになった人物は矢田部良吉は植物学者です。

ドラマ「らんまん」田邊彰久のモデルになった 矢田部良吉を紹介します。

目次

ドラマ「らんまん」のとは

名前:田邊彰久(たなべ あきひさ)
演:要 潤(かなめじゅん)
  出演作は「仮面ライダーアギト」
  「タイムスクープハンター」
  NHK大河ドラマ「晴天を衝け」など。

東京大学植物学教室の教授。万太郎に大きな影響を与えます。

野田基善の紹介状を持ってやってきた万太郎を快く出迎えました。若いころ中濱万次郎から英語を教わったことがあり、おなじく万次郎と会ったことのある万太郎と意気投合。東大植物学教室への出入りを許可します。

植物学雑誌を作りたいという万太郎にも許可を出します。

しかし田邊彰久にはある思惑がありました。

 

田邊彰久のモデル 矢田部良吉とは

 

矢田部 良吉(やたべ りょうきち)は明治時代の植物学者。

1851年10月13日(嘉永4年9月19日)。蘭学者の家系に生まれました。
伊豆国韮山(現・静岡県伊豆の国市)出身。

若いころ中濱万次郎や大鳥圭介から英語を学びました。

18歳で開成学校の教授試補(見習い)に選ばれ。アメリカ・コーネル大学に留学。そこで植物学を学びました。

日本植物学の父

帰国後。1877年(明治10年)。26歳のとき 東京大学の初代植物学教授になりました。

矢田部は有能な植物学者でした。近代的な植物学がまだ広まっていない日本での植物学を初めた一人。知識だけの他の学者と違い、自分で汗水流して野山を歩き調査も行う行動力のある学者でした。牧野富太郎と似たところがあります。

牧野富太郎が「日本の植物学の父」「日本の植物分類学の父」と呼ばれることがありますが、そうではありません。「父」というからには最初に始めた人。基礎を作った人が父と呼ばれるべきです。業績が大きいから父ではありません。

そういう意味では矢田部良吉は間違いなく日本で植物学の基礎を作った人です。大学に研究施設を作り、そこに資料や標本を集め、標本を保管する施設(ハーベリウム)を作り、自らも研究者として活動して次世代の研究者も育てた。牧野富太郎も矢田部良吉の作った研究環境があったから研究に打ち込めたのです。

牧野富太郎も日本のハーベリウムは矢田部先生が建設して松永先生が発展させた。と書いているように。牧野富太郎自身は自分が日本の植物学の父や先駆者とは思っていませんでした。

そんな矢田部でも学名を付けるには最初はロシアの植物学者マキシモヴィッチに頼っていました。

しかし後には矢田部たちも自分で学名をつけるようになります。

キレンゲショウマという植物の学名 (Kirengeshoma palmata Yatabe)をつけるなど、牧野富太郎とともに日本の植物学の発展に貢献しました。

牧野富太郎との出会い

1884年。牧野富太郎が招待状を持ってやってきたました。いきなり夢を熱く語る牧野を、矢田部は暖かく迎え入れ東京大学の植物学教室への出入りや書籍や2千点の標本を自由に見て良いと許可しました。

牧野富太郎の才能を高く評価した矢田部は植物学の雑誌を作りたいという牧野に賛成。東京植物会の機関誌にしたいと言います。

その後、牧野たちが作った「日本植物誌図編」も称賛しました。

西洋の文化が好き

矢田部良吉は西洋の文化を積極的に取り入れるのが好きでした。外務大臣の森有礼のお供をして外国を見て回りったことがあります。

1885年(明治18年)。外山正一たちとともに羅馬字会(ろーまじかい)を設立。明治の日本には「漢字やかなを廃止して日本語表記をローマ字にすべき」と無茶な主張する人たちがいて、ローマ字を普及させようとしていました。

外山正一、井上哲次郎とともに新体詩(漢文や和歌の影響をうけていない西洋風の詩)の普及に務めました。

矢田部は当時、高等女子高校の校長を兼任。その女子生徒に鹿鳴館でダンスを踊るように指示していました。矢田部自身も鹿鳴館で社交ダンスを踊ったりもしています。

当時は西洋の文化を知らない人ばかり。日本が不平等条約を改正するためには日本を西洋に文明国と認めさせ、日本は野蛮で劣る国ではないと見せなければいけません。矢田部も立場上、仕方ない部分もあります。でも反対派からは批判をあびました。

そんな変わったところのある矢田部良吉ですが。明治前半の日本の植物学界では権威でした。

破門草事件

トガクシソウの学名を巡って矢田部良吉と民間の植物学者・伊藤篤太郎の間に起きた事件。

矢田部は1884年(明治17年)に戸隠山でトガクシソウを採集。小石川植物園で育てて花を咲かせ、学名を付けてもらおうとロシアの植物学者マキシモヴィッチに送りました。マキシモヴィッチはメギ科の新属だと認め「ヤタベア ジャポニカ」という学名を付けようと思うが、調査が必要なのでさらにサンプルを送るように」と矢田部に連絡しました。

一方。伊藤篤太郎は当時、東京大学植物学教室に出入りを許された植物学者でした。

伊藤篤太郎は大久保三郎からトガクシソウの属名に矢田部の名前が付きそうだと知りました。

矢田部より先に伊藤篤太郎の叔父・伊藤謙が1875年(明治8年)にトガクシソウを戸隠山で採集。

1886年にマキシモヴィッチはロシアの雑誌にメギ科ミヤオソウ属の植物として「ポドフィルム・ジャポニクム」という名前で発表していました。

ところがトガクシソウがミヤオソウ属ではなく新しい属だとわかりそれに矢田部の名前が付きそうになったので。1888年(明治21年)10月。伊藤はイギリスの植物学雑誌に新しい属を「ランザニア属」と名付け、「ポドフィルム・ジャポニクム」を「ランザニア・ジャポニカ」の学名にするよう発表。伊藤の案が採用されました。

すると矢田部は激怒。伊藤篤太郎を植物学教室に出入り禁止にしてしまいます。

そのためトガクシソウは「破門草」ともよばれます。

この事件は牧野富太郎にも深い印象を残しました。

ところが富太郎も同じ目に会うのです。

ムジナモ(アルドロヴァンダ・ベンクローサ)の特定

ムジナモと言えば牧野富太郎の業績の代表のように言われます。確かに日本でムジナモを見つけたのは牧野富太郎でした。でも牧野もこの植物が何なのかわかりませんでした。東大の研究室に持ち込んでも誰もがわかりません。

ところが矢田部良吉はこの植物を見てある書籍(ダーウィンのインセクチヴホラス・プランツという本だと言われます)に似たような物があったのを思い出しました。そして矢田部が本を調べたところ牧野の見つけた植物がすでに西洋で発見されている「アルドロヴァンダ・ベンクローサ」だとわかりました。

新種ではありませんが、アルドロヴァンダ・ベンクローサが東洋で見つかったのは初めてで。この植物に花が咲くのを発見したのも牧野です。「アルドロヴァンダ・ベンクローサ」は牧野によって「ムジナモ」の和名が付けられました。

でもこの植物が何か特定したのは矢田部でした。ところが牧野は自分の発見として論文を書いてしまいます。矢田部がいなければ何の植物か分からなかったのですから、学会の常識では論文は牧野と矢田部の連名で書くべきです。でも牧野は自分一人の手柄にしてしまったのです。

だからといって矢田部が怒ったという記録はありませんが。こうした行動も牧野が東大の人々から嫌われる理由のひとつになったかもしれません。

 

牧野富太郎を出入り禁止にする

1888年(明治21年)。牧野富太郎が「日本植物誌図編・第六集」を作ったころ。矢田部は牧野に「植物学教室でも同じような本を作ることにしたので、教室にある本や標本を見ないで欲しい」と言いました。

牧野は納得いきません。牧野は矢田部を説得しようとしますが、矢田部は牧野を植物学教室に出入り禁止にしました。

当時、大学内では大学の権威を認めない牧野を批判する意見がありました。さらに牧野は標本や本を借りるとなかなか返さない事がありました。大学の備品で矢田部や弟子たちが集めた標本や国の金で買った本は学校の皆の財産。私物化されては困る。という意見もありました。

矢田部に味方する人たちは牧野が東大にあった本や標本を大量に隠し持っていると批判しました。でも実際には牧野の大量の所蔵品からみつかった東大の本は1、2冊。大量に私物化しているは言い過ぎです。

今でもそうですが大学は権威社会です。身分社会の気分が残る明治の大学では教授はとても偉い存在でした。牧野は地位を持たない平民にすぎません。そんな牧野が教授と対等に接するのを嫌う大学関係者は多くいました。これは矢田部だけでなく後任の松村任三でも同じ問題が起こります。

さらに民間人の牧野が立派な「日本植物誌図編」を作ってしまえば大学は立場がありません。

そうした理由もあって牧野富太郎は東京大学への出入りを禁止されました。

小説やドラマの影響で矢田部個人が牧野富太郎を攻撃して排除したように思われるかも知れません。

東大の人々の間でも大学の財産である標本や資料を使って個人の書籍を発行することに批判があったようです。

牧野富太郎は晩年に書いた自叙伝などで矢田部とのエピソードを面白おかしく書いていますが。若い頃の牧野はとくに矢田部を批判していません。世間で言われているほど二人の仲は険悪ではなく、東大という組織の中にフリーの研究科・牧野を置いておくことに反発があったのでしょう。また、牧野も自分の置かれていた立場を理解していたのかも知れません。

 

日本植物学の独立宣言とキレンゲショウマ

そして明治23年(1890年)矢田部良吉は「植物学雑誌」に「泰西(ヨーロッパ)植物学者諸氏に告ぐ」という記事を発表。それまで日本の植物は西洋の学者によって研究され、西洋人によって分類され学名が付けられていました。これからは日本の植物は日本人が研究・分類・学名を付けると宣言しました。

矢田部は日本の植物学の「独立宣言」を行ったのです。

矢田部を西洋かぶれと書きましたが。矢田部は日本が西洋の手先や言いなりになっていいとは思っていません。日本が西洋と対等に渡り合うためには西洋の文化を学んで身に付けなければいけないと思っているだけです。

それまでにも牧野富太郎らによって学名が付けられることはありましたが。ほんのごく一部でした。これ以降、矢田部良吉たちはさらに意欲的に植物を研究。

もともと矢田部は研究室に閉じこもって研究するタイプではなく、自分で足を運んで植物を採集する活動的な植物学者でした。様々な役職を兼任していたので植物学に費やせる時間が限られていただけです。それでもいくつかの植物を発見して学名を付けています。

キレンゲショウマ(黄蓮華升麻)もそのひとつ。矢田部良吉は学名を”Kirengeshoma palmata Yatabe”と名付けました。

レンゲショウマに似てるのでキレンゲショウマと名付けられましたが。レンゲショウマとは別の種族の植物です。アジサイ科キレンゲショウマ属に分類される植物ですが他に近い種類の植物がなく、1つの植物で1種属になっている珍しい植物です。

矢田部は独立宣言したとおり、自分で植物を分類して新種と認定、学名を付けました。これ以降、日本人が学名を付けることが増えていきます。

 

東大を解雇される矢田部

矢田部良吉は牧野富太郎を大学から追い出すことに成功しました。

ところが。

1892年(明治25年)。矢田部良吉は解雇されました。

その理由は諸説あります。

矢田部は情熱のある有能な学者ですが、気性が激しく気に入らない相手がいると批判。周囲の人間関係を悪くしました。

矢田部は自分が校長を兼任している高等女学校(女子大)の20歳の女子学生と結婚しました(矢田部は41歳)。矢田部は妻を亡くしてしていたので二度目の結婚です。

矢田部は雑誌に「結婚相手を選ぶときは学者か教育者でなければいかん」と書いて物議をかもしたり。矢田部をモデルにした小説が毎日新聞に連載されたりしました。矢田部の行いはお堅い人たちからは批判をうけました。

そして最大の理由と考えられるのが箕作佳吉(みつくり かきち)や菊池大麓(きくち だいろく)と対立して負けたことです。箕作佳吉は東大の動物学教授。菊池大麓は数学者で教育者、政治家にもなっています。政治的な力は菊池・箕作派の方が上です。

箕作佳吉は後に東大総長になって松村任三の妨害から牧野富太郎を守ることになるのも不思議な因縁です。

とにかく牧野の知らないところで矢田部良吉は様々な敵を作っていたようです。

結局、権威を振りかざしていた矢田部はより大きな力に負けてしまいました。

矢田部良吉の最期

矢田部は東大をやめさせられた後。1895年に東京高等師範学校の教授。
1898年には校長になりました。

しかし1899年(明治32年)8月7日。鎌倉沖で水泳中に溺れてしまい。8月8日死亡しました。享年48。

 

 

 

 

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