野宮朔太郎(のみや さくたろう)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。
演じるのは亀田佳明さん。
東京大学に出入りする画工。田邊教授にスカウトされ、書籍に載せる植物の挿絵を描いています。
野宮朔太郎にはモデルになったと思われる人物がいます。
それが平瀬作五郎という人物です。
平瀬作五郎は東京大学の矢田部教授のもとで植物画を描いていました。後に植物に興味を持ち池野成一郎とともに植物を研究。世界で初めてイチョウの精子を発見します。
ドラマ「らんまん」の野宮朔太郎とモデルになった平瀬 作五郎を紹介します。
ドラマ「らんまん」の野宮朔太郎(のみや さくたろう)とは
野宮朔太郎(のみや さくたろう)
東京大学植物学教室で雇われている画工。
福井出身。西洋の絵画を学び、絵を教えていたところ。田邊にスカウトされ、東京大学に出入りするようになりました。愛想がなく最初は万太郎とも疎遠でしたが。万太郎の腕を認め打ち解けます。万太郎には教授には逆らわないようにと忠告。
後に田邊教授から万太郎のような精密な植物画を描くように言われ困り。波多野に助けを求める場面があります。
またドラマでは田邊教授のリクエストに困った野宮が波多野泰久に相談する場面もあります。波多野 泰久のモデルは池野成一郎です。
今後は野宮は波多野とともに研究を続け。植物のソテツの精子の発見をします。
演:亀田佳明
俳優、声優。
文学座所属。
舞台のほか、洋画の吹き替えもしています。
NHK朝ドラは初出演。
モデルは平瀬 作五郎
武士の子として生まれる
平瀬 作五郎(ひらせ さくごろう)
安政3年1月7日(1856年2月12日)。越前国(現在の福井県福井市日之出町)で生まれました。
父は福井藩士の平瀬儀作。
福井藩中学校(福井県立藤島高等学校)に入学して加賀野井成是に油絵を学びました。卒業後は学校の図画の教授助手になりました。
1873から1875年。東京で写実派の油絵を学びました。その後は岐阜県中学校で図画を教えます。
帝大で画工になる
明治21年(1884年)。帝国大学理科大学(東京大学理学部)植物学教室の画工として就職。
矢田部良吉教授のもとで教材や論文に載せる植物画を描くのが仕事です。
平瀬作五郎が絵の才能は素晴らしく手先も器用でした。自分で植物の顕微鏡標本を作ったりプレパラートを作ることもできます。様々な道具を使って精密な絵を描くこともできました。画工時代にすでに植物の扱いを身に着けていました。
明治25年(1892年)。矢田部良吉教授が非職。植物学教室からいなくなりました。
松村任三が植物学教室の主任教授になりました。
日本植物学の快挙、イチョウの精子の発見
明治26年(1893年)。このころからイチョウの研究を始めました。
まもなく平瀬作五郎は助手に任命され。同じころに牧野富太郎も助手になっています。
平瀬作五郎の月給は25円。牧野富太郎は15円でした。うどん1杯が2銭。1円が今の1万~2万円の価値があった時代です。
このころ主任教授の松村任三は植物生理学や解剖学の必要性を強く主張。顕微鏡を使った実験を積極的に行いました。植物を集めて標本を作り分類するだけでなく。植物の詳しい構造や働きをミクロの視点で研究しようという雰囲気が盛り上がっていました。
平瀬作五郎は小石川植物園のイチョウから様々な成長具合の銀杏を採取。銀杏を切ってはサンプルを作り顕微鏡を観察しました。もともと顕微鏡のサンプルを自分で作って詳細な解剖図を描いていた平瀬はこういう仕事は得意なのです。
明治27年(1894年)1月に最初の論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を「植物学雑誌」に発表しました。
明治29年(1896年)。そしてイチョウの精子を世界で初めて発見。平瀬は最初は寄生虫かと思いましたが、助教授の池野成一郎に見せたところ精子だとわかりました。
2ヶ月後。池野成一郎がソテツの精子を発見しています。
いちょうの精子発見がなぜ凄いのか
平瀬と池野の発見は世界の植物学研究者に衝撃を与えました。それまで謎とされていた植物の進化の一部を解明するものだったからです。
当時。ミズゴケやシダ類など原始的な植物は精子で受精することが分かっていました。より進化した花をつける被子植物は花粉で受精することが分かっています。でも、その中間にある裸子植物はどちらなのか?は謎でした。
ドイツの植物学者ホフマイスターは松柏類(イチョウの仲間)は精子かも知れない。と仮説をたてていました。そこで世界中の研究者が先を競って調べていました。
松村教授の率いる植物学教室もその研究に取り組みました。その流れで平瀬作五郎が研究するように任命されたようです。
平瀬作五郎のイチョウの精子の発見の後。池野成一郎もソテツにも精子があることを発見。進化の流れでは被子植物とシダ・コケ類の中間にあるシダ・ソテツ類はシダ・コケ類に近い精子で受精する植物だとわかりました。
平瀬作五郎は外国語はできません。なので平瀬作五郎が書いた日本語の論文を池野成一郎が英語・ドイツ語・フランス語に翻訳して世界に発表しました。
平瀬の発見は世界の植物学者にとって衝撃でした。なにしろコケやシダのような原始的な植物ならともかく。大木に育つ進化した植物に精子があると思っている学者はほとんどいなかったからです。
イチョウの平瀬作五郎、ソテツの池野成一郎は世界の植物学者にも知られるようになりました。
ところが世界的な大発見だったにも関わらず。平瀬作五郎の功績は日本国内では評価されませんでした。正しく評価していたのは池野成一郎くらいでしょう。
多くの人達は「門外漢が偶然発見したもの」「平瀬は池野の手助けをしていたのだから池野の成果だ」という意見が多かったのです。
でも平瀬の発見は偶然ではありません。1年近くイチョウを観察してサンプルを調べ続けて得られた発見だからです。
突然の退職
大発見から1年後。
明治30年(1997年)9月8日。平瀬作五郎は帝大を依願退職しました。
平瀬の退職理由はわかりません。
牧野富太郎は「策道者の犠牲になった」と著書の中で書いてます。平瀬作五郎を評価する人がいる一方で、平瀬作五郎を正しく評価しないものが大学内部にいたのでしょう。そうした人たちから圧力がかかったのかも知れません。
結局、平瀬作五郎は自ら辞表を出して辞めてしまいました。あるいは自分の存在が好意的な池野成一郎たちに迷惑がかかると思ったのかも知れません。
牧野富太郎にとって平瀬作五郎の依願退職は理解できなかったようです。牧野富太郎ならそんな圧力には抵抗します。でも武士の子として育った平瀬作五郎には理解の得られないまま地位にしがみつくのが見苦しい。潔く身を引くことも大事だという考えがあったのかもしれません。
平瀬作五郎が去った後も池野成一郎は平瀬作五郎が書いた日本語の論文を英文・フランス語・ドイツ語に訳して発表しました。池野成一郎にとってはそれが精一杯の援助だったのです。
滋賀で学校教師になる
9月10日。平瀬作五郎は滋賀県尋常中学校の教諭心得になりました。
明治33年(1901年)。滋賀県第一中学校(尋常中学校)講師になりました。昇進です。
この間は教育者に徹して植物の研究はしていません。
明治37年(1904年)3月。滋賀県第一中学校を退職。
この前には子供を病で失っており、公私共に様々な苦労があったので心機一転しようとしたのかも知れません。
4月。朝鮮郡山の外国人居留地に向かいました。商売をしようとしたとも旅行ともいわれます。7月に帰国。
第二の研究人生
明治38年(1905年)。京都の私立花園学林(現在の花園高等学校)の講師になりました。
講師としての仕事を務める傍ら、このころからまたイチョウの研究を始めました。京都の御室にある自宅が研究室です。
明治44年(1911年)。京都にある島津製作所が発行した雑誌に記事を書くことになりました。
明治45年(1912年)。イチョウの研究が評価されて帝国学士院恩賜賞を受賞しました。
このとき、最初は平瀬作五郎は受賞の対象ではありませんでした。ソテツの研究が評価されて池野成一郎が受賞することになっていました。
でも池野成一郎は「平瀬君が受賞しないなら断る」と主張。平瀬作五郎と池野成一郎が受賞することになりました。
一度は中央から葬り去られた植物学者としての平瀬作五郎が再び認められた瞬間でした。
その後。クロマツの受精についても研究。「植物学雑誌」に論文を載せました。
このころ文献調査などは池野成一郎が援助。研究機材や薬品、標本などは島津製作所、機材などは塚本幸七氏の援助を受けていました。
南方熊楠との共同研究
平瀬作五郎は明治の終わりころから南方熊楠と松葉蘭の発生について共同研究を始めました。京都にいる平瀬作五郎に和歌山にいる南方熊楠から誘いがあったようです。
その後、しばらく二人は手紙をやり取りして共同研究しました。
ところが大正10年(1921年)。オーストラリアの研究者が論文を発表。先をこされてしまいました。南方熊楠と続けた松葉蘭の研究は終わります。
大正12年(1913年)。大阪府立高等医学校(大阪大学医学部)で植物学を教えました。私立花園学林の講師との兼任です。
大正14年(1924年)。肝硬変で退職。
大正15年(1925年)、京都市右京区御室の自宅で亡くなりました。
平瀬作五郎は大発見したにも関わらず、植物の専門家の間でもあまり評価されていません。現在でも平瀬 作五郎の功績は正しく評価されているとはいえません。
結局、肩書や経歴、所属組織でしか人を評価できない日本社会では平瀬作五郎を正しく評価できる人物はほとんどいなかったのです。
参考文献
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