徳永政市(とくなが せいいち)は2023年朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の登場人物です。
徳永政市は東京大学植物学教室の助教授。教授の田邊彰久のもとで働いています。
学歴のない牧野富太郎を疎ましく思っています。
演じるの田中哲司さん。
モデルになった人物は実在する松村任三は植物学者です。
ドラマ「らんまん」徳永政市のモデルになった松村任三を紹介します。
ドラマ「らんまん」の徳永政市とは
徳永政市(とくなが せいいち)
演 : 田中哲司
出演作は「緊急取調室」シリーズなど。
NHK大河ドラマ「軍師勘兵衛」。
仲間由紀恵の夫。
東京大学植物学教室の助教授。
武家出身で頭が堅い。
英語が苦手でもともとは法学部が希望でした。
小学校中退の万太郎が東大植物研究室に出入りするのを反対しました。大学の権威をなんとも思わず変わり者の万太郎を苦々しく思っていますが、矢田部のある思惑を知り万太郎の図鑑作りに協力。万太郎の理解者になります。
ドイツに留学。矢田部の退任後、植物学教室の教授になると万太郎を助手として誘いました。ドイツで学んだ最新の知識を活かして、植物解剖学など新しい研究を導入。政府の方針に従った研究を進めるよう万太郎に指示したり、万太郎との考え方の違いが目立つようになります。
モデルになった徳永政市は牧野富太郎と対立、図鑑づくりで対立したり大学を追い出そうとしますが。ドラマの徳永政市はそこまで万太郎とは対立しません。矢田部教授が悪役として描かれていたのに対して、かなりマイルドな脚色のされ方になっています。
徳永政市のモデル 松村任三とは
1856年2月14日(安政3年1月9日)
常陸国多賀郡下手綱村(茨城県高萩市)で誕生。
常陸松岡藩の家老の長男でした。
明治維新後。大学南校(東京開成学校、東京大学の前身)に入学、法律学を学びますが中退。
その後は東京大学小石川植物園で働き、矢田部良吉教授から植物学を学んで助手になりました。
エドワード・S・モースの大森貝塚の発掘に参加しました。
明治15年(1882年)。東京植物学会(日本植物学会)の設立に尽力。
明治16年(1883年)。東京大学植物学の助教授になりました。
明治16年(1884年)。「日本植物名彙」を執筆。
明治17年(1885年)。矢田部良吉の許可で東大植物研究室に牧野富太郎が出入りするようになりました。松村任三は牧野の知識や才能に驚き最初は寛大なところをみせていました。牧野の下宿先に遊びに行くこともありました。
明治18年(1886年)。ドイツに留学。植物分類学を学びました。
この間に牧野は植物学雑誌を作りましたが、このときは松村は日本にはいませんでした。
明治20年(1888年)。帰国。
明治21年(1889年)。矢田部の命令で牧野が植物学教室に出入り禁止になりました。松村は牧野に同情しましたが。矢田部に逆らうことはしませんでした。
東大教授になる
明治24年(1891年)。帝国大学理学部植物学科の教授になりました。
明治25年(1892年)。矢田部が帝国大学理科大学(東京大学大学院理学部)を辞職。
松村が教授になりました。牧野富太郎を高く評価していた大学の学長の意向で。松村が牧野に手紙を書いて「理科大の助手にならないか」と誘いました。
牧野富太郎との対立
明治26年(1893年)。牧野富太郎は助手になり。松村の下で働くことになりました。
ところが松村任三と牧野富太郎の関係はうまくいきませんでした。
牧野富太郎の自伝では「松村任三の親戚との縁談を断ったから嫌がらせしているのだ」と憶測を交えて書いていますが。それだけではないようです。
というのも二人は考え方が全く違ったからです。
松村任三は大学の教授として助教授、講師、助手の階級社会の頂点にいる。だから下のものは自分に従うべき。という身分制度時代そのまんまの考え方でした。
でも牧野富太郎は大学職員として松村の下で働いているけれども。松村の弟子になったつもりはない。ということで松村への忖度は全くなし。どんどん植物採集を続け標本を増やし論文も書き、植物学会での実績と名声を高めていきました。
一方。松村任三にも言い分はあります。
牧野は夢中になると周りが見えなくなって他人への気遣いができない部分があります。頑固で人のアドバイスを素直に聞くような人ではありません。そんな牧野に東大側から反発が起きるのは仕方のないことかも知れません。
松村任三は自分の思いどおりにならず、教授の顔を立てようとしない牧野富太郎を憎むようになりました。牧野富太郎の功績が話題になると「奴は仕事ができても売名行為が上手すぎる」と批判。牧野富太郎の給料が上がらないように妨害しました。
牧野富太郎の低賃金を気の毒に思った帝大総長の浜尾新は牧野に「大日本植物誌」の編纂を任せました。「大日本植物誌」はかつて矢田部が作ろうとしていたものです。
ところが松村任三はそれが気に入らず文章が下手だとか文句をつけ。「大日本植物誌」の編纂でもらえるはずだった手当も松村任三や大学教授たちは「牧野を特別扱いするわけにいはいかない」と支給を認めませんでした。「大日本植物誌」は素晴らしい本でしたが4集を制作したところで中断。
しかし牧野富太郎は東京博物学研究会が編纂した「植物図鑑」にも関わり。世間でも大学教授の松村任三より有名になりつつありました。
1897年。松村任三は大学付属小石川植物園の植物園園長になりました。
牧野富太郎追い出し作戦失敗
松村任三は自分より有名になりつつある牧野富太郎を追い出そうとしました。でも理科大学長の箕作佳吉が認めません。
1909年。やがて牧野富太郎の理解者だった理科大学長 箕作佳吉が死亡。新たしい理科大学長に桜井錠ニが就任。
松村任三は事情を知らない桜井錠ニに牧野富太郎を止めさせるように働きかけました。牧野富太郎を止めさせることに成功したのですが。特に理由もないのに牧野富太郎を止めさせるのはおかしいと仲間たちが桜井錠ニに交渉しました。
結局、牧野富太郎は講師の立場で採用されることになりました。松村任三の工作は失敗して助手の時代よりも待遇がアップしてしまったのです。
植物学者としての松村任三
牧野富太郎に敵意を持っていた松村任三ですが。決して無能な人物ではありませんでした。むしろ有能な植物学者で、植物学の世界では松村任三も功績を残しています。矢田部良吉とともに日本の植物学の発展に貢献した人物です。
松村任三は東大教授の矢田部良吉とともに明治10年から10年近くかけて全国から3000点近い植物標本を集めて分類。日本で始めての植物の標本室を作りました。矢田部良吉と松村任三は日本で植物研究ができる環境を作りました。
1912年。「帝国植物名鑑」を完成させました。
牧野富太郎は日本の植物フロラ
生涯の間にソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名をつけました。
分類だけでなく、植物解剖(形態)学という新しい分野を広め、植物分類の発展に貢献しました。
牧野富太郎自身も日本の植物分類学を開拓したのは松村任三だと著作に書いてますすし彼の功績は素直に認めています。
晩年
松村任三も有能な学者なのですが彼が不幸だったのは牧野富太郎を部下にもってしまったこと。牧野富太郎は権威に対抗意識を燃やし、人付き合いに無頓着でした。身分社会の雰囲気の残る大学内では階級社会を飛び越えた活動をする牧野富太郎を苦々しく思う人物はいました。松村もそのひとりです。
牧野富太郎が並の人物なら無視したり松村任三の力で葬り去ることができたのでしょう。出来すぎる牧野は良くも悪くも影響が大きいですし。高まる牧野富太郎の名声に教授としての松村任三のプライドが許さなかったことです。
松村任三と牧野富太郎は学問的な対立というよりは感情的な対立になっていました。
大正11年(1922年)。定年のために東京帝国大学を退職しなければいけなくなりました。
でも講師は教授と違って1年契約の繰り返しなので定年がありません。講師は1年で切られるリスクはありますが、大学は牧野富太郎との契約を打ち切ろうとはしませんでした。松村任三が去っても牧野富太郎は残ることになりました。
松村任三は定年退職した時、ある新聞に「私がどうしても辞めねばならぬときは牧野も止めさせておいて、私はやめる」と答えたそうです。
大正14年(1925年)。正三位勲一等を与えられました。
松村任三は植物に関係する様々な本を執筆。教養のある人物だったので、晩年には植物以外の本も執筆しました。
著作物としては新撰植物図編、語源類解、植物名彙、溯源語彙、漢字和音、地名の語源、神名の語源などがあります。
昭和3年(1928年5月4日)。脳溢血のため死亡。享年72歳。
牧野富太郎の話ではどうしても悪役になってしまう松村任三ですが。彼自身、功績を残している有能な学者ですし。東大を追放された牧野富太郎を東大に呼び戻したのも松村任三です。牧野自身も松村任三が根っからの悪い人物ではないこと。明治期の植物学発展の功労者なのは認めています。
個性の強すぎる有能な人物が同じ場所で一緒にいることが出来なかったのでしょう。
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